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向田邦子「向田邦子ベスト・エッセイ」 自分との関係に刃物抱えて綴る矜恃

 向田邦子が残したエッセイから五十編を収めた本書の感想を一言で言うならば、「どら焼きのようだ」。

 上の「皮」は『父の詫(わ)び状』の表題作。子供のころ、父の訪問客が酔って家の玄関に残した吐瀉(としゃ)物を拭い取っていると、父は黙ってそれを見ているが、後日ねぎらいの言葉を書いた手紙が送られてくる。「人一倍情が濃い癖に、不器用で家族にやさしい言葉をかけることが出来」ないところが昭和の父そのもので、こういう父親をたくさん見てきた昭和の私としてはため息まじりの笑いを禁じえない。

 だが、この作品の「皮」たるゆえんはそこではなく、夜更けに生きた大きな伊勢海老(えび)が届く冒頭のエピソードにある。ひとまず冷蔵庫に入れるが、料理することを思うと気が重くて寝つけない。「海老を食べようと決めるのも私だし、手を下すのも私である」

 この凜(りん)とした言葉が放つ、体内に刃物を抱えているという予感は、下の「皮」である最後の「手袋をさがす」に到(いた)ると決定的なものとなる。途中に挟まれた「餡(あん)」のところで笑ったり、驚いたり、呆(あき)れたりして寛(くつろ)いでいた心が、再び刃物を突きつけられてびくっと慄(おのの)く。

 戦後間もない冬、気に入った手袋が見つからないという理由で手袋なしで過ごしていると、上司が忠告する。「君のいまやっていることは、ひょっとしたら手袋だけの問題ではないかも知れないねえ」

 ハッとした彼女はその言葉を反芻(はんすう)しながら四谷の仕事場から渋谷まで歩き通し、ひとつの結論に達する。このままゆこう、反省するのはやめにしよう、自分のイヤな性格ととことんつきあってみよう。

 二十二の身空でそう決意するのだから、なまくらな刃物ではない。思い出は甘美でも、それを見つめ綴(つづ)る自分との関係は常に張りつめている。決して手綱を弛(ゆる)めないその矜恃(きょうじ)こそが、彼女にとって書くことの力であったと思う。=朝日新聞2021年8月21日掲載

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 ちくま文庫・990円=20刷16万1200部。2020年3月刊。飛行機事故により51歳で亡くなった脚本家・小説家のよりすぐりの文章を末妹が編んだ。22日は没後40年の命日。