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林芙美子「浮雲」 敗戦直後の虚脱感、率直に

平田オリザが読むが読む

 一九三○年、林芙美子はかつて連載を続けていた『放浪記』『続放浪記』を相次いで刊行、一躍、人気作家となった。翌年には洋行して、パリ、ロンドンに滞在、紀行文を書いて人気を博す。仕事を断らない林はマスコミに重宝され、ラジオや講演にも引っ張りだことなった。

 三七年、南京攻略戦に新聞社の特派員として従軍。翌三八年には内閣情報部が組織した「ペン部隊」の一員として武漢攻略戦に参加。漢口一番乗りを果たして勇名をはせる。

 「大衆作家」が、大衆の望むものを書く作家と規定できるなら、林芙美子はまさにその典型だった。当時、大衆は連戦連勝の大本営発表だけではなく、戦場の兵士たちの様子が知りたかった。そして林はそれを書いた。

 戦意高揚に加担し、おそらくは目撃したであろう日本軍の残虐行為を糊塗(こと)した林の罪は重い。しかし文学史的に見ると、この林の従軍が『浮雲』という一編の名作を生んだことは間違いない。それは、他のインテリ作家たちが書いた「戦後文学」とも異なり、戦争直後の日本人の言いようのない虚脱感、喪失感を見事に表す傑作となった。

 日本軍が進駐したベトナムで、フランス人たちが残した住居に暮らし、貴族のような生活を経験した男女が、戦後、食うや食わずの生活を続け、国内を転々として逢瀬(おうせ)を繰り返し、やがて屋久島にたどり着き悲惨な末路を迎える。

 当時、屋久島は日本国の最南端であった。風船のように膨らんだ大東亜共栄圏の夢が一挙にしぼんで、日本は元の小さな島国となった。その言い知れぬ寂しさ。誰にもぶつけることのできない悲しみ。単なる「反省」ではなく、当時の日本人の率直な感覚を『浮雲』は克明に描いている。

 本作はのちに映画化(成瀬巳喜男監督)され、世界映画史に残る名作となった。高峰秀子と並んで主演を務めた森雅之は有島武郎の長男。有島の作品「小さき者へ」に登場する子供の一人である。=朝日新聞2021年10月16日掲載