ISBN: 9784000614849
発売⽇: 2021/08/10
サイズ: 20cm/172p
「パムクの文学講義」 [著]オルハン・パムク
本書は二〇〇九年にハーバード大学で行われた、オルハン・パムクの文学講義をまとめている。トルストイ、プルースト、ドストエフスキーなどの古典を例に挙げつつ、書くこと、読むこと、小説とは、そして小説の「中心」とは何なのか、を解き明かしていく。
手始めに、パムクはシラーというドイツの詩人が書いた論文にある区分け、「直感的(ナイーブ)」と「自意識的(センチメンタル)」という二種類の作家の資質について解説し、著者と主人公を同一視する読者とそれを見越す作家とさらにそれを見越す読者という終わらない合わせ鏡の構造、美術館に行くことと小説を読むことの違い、非西洋の作家は必然的に「何を代表して書くか」という問題を抱えるが西洋の作家は環境的にその次元から既にして脱却しているという決定的な相違、読者の小説に対する所有意識、本を読むことの優越感にまで言及し、優れた小説にのみ存在する「中心」に迫っていく。
難解なテーマ、取り上げられる巨匠作家のオンパレードに敷居が高いと感じる人もいるかもしれない。しかし著者は真理を逃さないための凝った言い回しや詩的な表現を用いもするが、最短距離で理路整然と書かれた文章は、入り組んだ内容とは相反してスムーズに読む者の懐に入り込んでくる。さらに「もしかしたら私はいま、企業秘密をばらしすぎてしまっていて、小説家組合の会員資格を剝奪(はくだつ)されるかもしれません!」など、パムクらしい茶目(ちゃめ)っ気のある口語で書かれているため堅苦しさはまるでない。
小説は、「直観的」と「自意識的」という区分自体から矛盾していて、真実に近づくために虚構を紡ぐという構造自体にも矛盾がある。しかし世界も人も実際は矛盾に満ちた存在であり、道徳的判断に寄りすぎていては生きていくことが困難となる。「近代人は世界のなかでくつろげるようになるために小説を読み、小説を必要とする」とパムクが言うように、私たちは小説を通してあらゆるバリエーションの人や社会の矛盾を同時進行的に体験し世界の真理に近づくことによって、手足を伸ばせるようになるのだ。
本書を読む間すべてを明るく照らし視界を広げてくれた巨大な太陽に飲み込まれ、その裏側の世界に到達したような読後感に打ち震えたあと、ずっと喉(のど)がつかえているような感覚が消えなかった。これから先、小説を読むことはこれまでより深く、いっそうクリアかつ濃厚な体験になるだろうという確信、そして小説に引き寄せられ、小説への思索と探求を止められない人々への愛(いと)おしさで、全身が苦しいほど満たされていたのだ。
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Orhan Pamuk 1952年、イスタンブール生まれ。『ジェヴデット氏と息子たち』でデビュー。『わたしの名は赤』で国際IMPACダブリン文学賞。『雪』で仏メディシス賞外国小説部門。2006年、ノーベル文学賞。