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廣松渉「世界の共同主観的存在構造」 近代の主客図式を超えて

ひろまつ・わたる(1933~94)。哲学者

大澤真幸が読む

 本欄で、私自身が直接教えを受けた人の本を取り上げるのは初めてである。私は、大学制度上の「弟子」という立場ではなかったが、廣松渉というモデルに接したおかげで、「哲学する」とはどういうことかを真に納得できた。

 『世界の共同主観的存在構造』は、未完の主著『存在と意味』に連なる廣松初期の代表作。認識と存在の基本構造が明晰(めいせき)に分析される。廣松が乗り越えようとしているのは「主観―客観」図式である。私的な主観が、外部に実在する客体を、心象等の意識内容を媒介にして認識する、という構図だ。近代的認識論にとって自明の前提だが、廣松によれば誤りであり、二十世紀中葉の学問停滞の原因である。

 ではどうなっているのか。まず現象は、必ず「或(あ)るものとして」現れる。例えば「犬」として。「犬」は、あの犬の如実の見え姿とは異なる「それ以上の何か」である。その証拠に、犬が走り回って見え方が変わっても同じ「犬」だし、そもそも、その他の諸々(もろもろ)の犬たちと同じ「犬」である。このように現象には「何かがそれ以上の何かとして」という二重性がある。

 現象は私に対して現れている。が、「犬」は、私としての私に現れているわけではない。私は、まさにあの生き物を「犬」として認識する共同体(例えば日本語の共同体)の一員としてそれを見ている。つまり認識する主体の側にも二重性がある。

 現象の二重性と認識主体の二重性が対応している。両者を合した「四肢的な構造連関」が、主客図式への廣松の代替案だ。

 四肢構造論には、ただの「知識」や「お勉強」を超えた含みがある。人が共同主観化された何者かとしてのみ何かを認識するのだとすれば、認識の抜本的な刷新や転換は、私たちの共同性・協働性のあり方を変革することによってしか実現できない、ということになるからだ。

 哲学の使命は、概念を創造し、世界の見え方自体を変えることにある。廣松渉は、まさしく哲学者であった。=朝日新聞2021年11月6日掲載