猫が好きだ。かなり好きだ。猫派か犬派か? と訊かれたら、一も二もなく「猫」と答える。犬ももちろん可愛いし賢いし好きなのだが、それ以上にやっぱり猫が好きだ。
どれくらい猫が好きかというと、まずペットショップが苦手だ。あどけない命たちが値段をつけられているのを見ると複雑な気分だし、売れ残った子たちの末路を考えると気が滅入る。
それから、ペットを飼っていない人たちの「所詮ペットでしょ」という態度がどうにも解せない。なぜ「子供が病気なので会社を休みます」だと許されるのに、「ペットが病気なので」は許されないのだろうか。「それくらいで」と鼻で笑われるとその鼻っ柱を拳で殴りつけたくなる。
少し熱くなってしまった。とりあえず、それくらい猫が好きなのである。
人生の約半分を猫と過ごしてきた。初めて猫を飼い始めたのは十五年前、高校生のときである。譲渡会で貰ってきた猫で、それから拾ったり譲り受けたりしていくうちに、三匹まで増えた。みんな元気で健在で、一匹は妹が、二匹は母がそれぞれ飼っている。自分は結婚し、猫を飼うつもりはなかった。
なかったはずなのだったが、ある日妻の甥っ子が猫を拾ってきた。段ボールに詰めて公園に捨てられていた、という漫画のようなシチュエーションだったらしい。ただ、甥っ子の家族は猫アレルギー持ちで、どうしようと送られてきた写真を見て完全にノックアウトされてしまった。つぶらな瞳で見上げている片手ほどのサイズのその子猫はあまりにも愛らしく、そしてここで自分が見捨ててしまったらこの子は一体どうなるんだ!? という謎の使命感に駆られ、結果うちで飼うことになった。
天使のような可愛さを振り撒いていたその子は今では丸々と成長し、女王のようなふてぶてしさで人間を愚弄している。よく食べよく寝る健康的な娘だ。
飼うつもりなかったのにね、なんて妻と話していると、その三年後、今度は妻の友人から連絡が来た。友達が猫拾っちゃったんだけど、どうしよう。拾った人も友人も犬を飼っており、周りにも飼える人はいなかった。それにしても、なぜ皆猫を拾うと我が家に連絡をしてくるのか。
写真を見る。薄汚れた毛並みに、目脂にまみれて塞がった両目。雨の日に階段の下にちょこんと座っていたそうで、おそらく他の家族とはぐれてしまったのだろう。ここでまた使命感が突き上げてくる。しかし、このときばかりは相当に迷った。我が家には既に一匹猫がいる。その子のことを考えると、安易に決めるべきではない。ああでも、ここで我々が断れば、このはぐれ猫は一体どうなってしまうのか。
結局その子も、我が家で飼うことになった。母猫に置いていかれるのもむべなるかなというくらいの鈍臭さで家の中を走り回っては滑って転んでいる。朝から晩まで何やら鳴きながら騒いでいる、けたたましく元気な男の子だ。
二匹はそれほど仲が良いわけではないが、まぁそれなりにお互いうまくやっているような気がする。ごく稀に一緒に寝ている姿を見たりするとなんだか嬉しくなってしまう。
というわけで今は猫一色の日々を送っているが、一つだけ懸念していることがある。実家時代の猫たちを含め、まだ死別というものを経験していないのだ。
考えることはある。この子たちが死んでしまったら。その文字を頭に思い浮かべるだけで激しい落ち込みに襲われてしまうのだから、実際そうなってしまったら、どうなってしまうのか想像つかない。
けれど、同時に思う。このいたいけな毛玉たちが天寿を全うするところを見届けられるということは、とても喜ばしいことなのではないだろうかと。きっとそれは飼い主としての義務で、そして幸福なのではないだろうかと。
それがいつやってくるかは分からない。命というものはいつ何が起こるか分からないものだから。だけど願わくば、どうかできるだけ長く、ふてぶてしくけたたましく、元気で過ごして欲しい。我々はそれを毎日、祈っている。