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小野寺史宜さんが歌にまでしたデイモン・ラニアンの作品は

1984年に発行された新潮文庫版の「ブロードウェイの天使」

 好き、を定義するのはなかなか難しい。

 例えば映画監督やミュージシャンや作家。好きな作品があればその人を好きと言ってしまうが、実はすべての作品が好きなわけではなかったりする。その一作だけが好き、ということもある。

 好き、の質もまた様々。

 何度でも観られたり聴けたり読めたりする作品もある。まあ、音楽は何度でも聴くものだが、それでも毎日は聴けなかったりする。一方で、頻繁に観たり聴いたり読んだりはできないが、いざ観たり聴いたり読んだりしたときの響きようは圧倒的、という作品もある。どちらかといえば、人は後者を好きの上位に挙げるだろう。

 で、僕はデイモン・ラニアンの小説が好きだ。

 どうにかギリ10代でラニアンを好きになれた。昔、新潮文庫から出ていた『ブロードウェイの天使』という短編集を読んだのがきっかけだ。

 本当に何度も読んだ。大げさでなく、100回読んだかもしれない。

 ラニアンは、1880年代に生まれ1940年代に亡くなったアメリカの作家。そもそもは新聞記者だったらしい。書いたのはほぼ短編のみで、その舞台はほぼすべてニューヨークのブロードウェイ。短編作家と言いきってしまっていい人なのだと思う。

 ここで言うブロードウェイは、ミュージカル界、ではなく、単純に、場所。マンハッタンの目抜き通りとしてのブロードウェイだ。

 出てくるのは、そのブロードウェイ周辺に住む、ノミ屋や賭博師といったあまりまっとうではない人たち。でも決して暗い話ではない。一人称で、語り口は明るい。

 加島祥造さんの訳がまたよかった。おれ、の一人称。語感として強すぎない、おれ。

 話し言葉の一人称を小説でやるのは簡単に見えて難しい。人と交わした会話を録音し、そのまま文字に起こしてみればわかる。で、や、それで、や、でも、や、まあ、の嵐。文末も、だよね、ですよね、でしょ、じゃないですか、ばかり。読めたものではない。小説として読ませるためには、緻密な微調整が必要なのだ。加島さんの訳はそのあたりが絶妙だった。

 短編。夜。狭い範囲の街。そして話し言葉の一人称。すべてが僕の好みに合った。毎日読めたし、それでいて、響きようも圧倒的だった。

 自分が好きな銀座をブロードウェイになぞらえ、僕はそこを隈なく歩くことで勝手にラニアンを感じた。ラニアンが描いたブロードウェイは銀座と同じぐらいの広さらしいのだ。

 僕はかつて音楽もやっていたが、ラニアンが好きすぎて、曲までつくってしまった。タイトルはストレートに、「デイモン・ラニアンのセレナーデ」。セレナーデは日本語にすると、小夜曲。夜の意を込めたくてそうした。ラニアンのそれは紛れもなく夜の小説だから。

 一曲のなかで、各短編の登場人物たちが交ざり合う。小説のあらすじを紹介してもしかたないので、詞を丸ごと載せてしまうことにする。僕がとらえたラニアンの空気を少しでも感じていただけたらありがたい。

デイモン・ラニアンのセレナーデ

株は落ち禁酒法に踊るブロードウェイ
ミンディのレストランでギャングたちとの四重唱
ちっちゃなミス・マーカーのダンスに沸き返るクラブ
デトロイトの賭場の今夜の合言葉はカンザスシティ
ダイスの一振りで魂さらわられた 賭博師スカイ・マスタースン
だけど ねぇ ミス・サラ・ブラウン 仕組まれてたんだ

荒くれのビッグ・ブッチは金庫破り
ジョン・イグネイシャス・ジュニアのお守りで忙しい
馭者台で馬にむちを当てるプリンセス
風を切り口ずさむアイルランドのうた
足をひきずり歩くジンびたりの女 誰でもポテトがあれば紳士
だけど ねぇ ミスタ・デイヴ・ザ・デュード よく仕組んだもんだ

無法者ラスティ・チャーリーはどうしたろう
ホット・ホース・ハービーは穴馬を当てたろうか
黒髪のドロレスはきれいだったなぁ
今ごろはサン・ピエールの百合も咲いてるだろう
ギンガムで飾られたグッド・タイム・チャーリーの店 飲む酒はトム・アンド・ジェリー
だけど ねぇ ミスタADR もう半世紀が過ぎた

 ジョン・イグネイシャス・ジュニアはビッグ・ブッチの息子、赤ちゃんです。
 ポテトはお金、ギンガムはギンガム・チェック、トム・アンド・ジェリーはカクテル、ADRはアルフレッド・デイモン・ラニアン、です。
 今はもう『ブロードウェイの天使』も絶版。
 ラニアンが読まれないことが残念でならない。