かつて私は、双子の姉のことを憎んでいた。
姉の名は、奈津子という。
私より要領よく人生を渡り歩き、何事においても私より幸福そうな姉のことが、私は憎たらしくてたまらなかった。
ところが私たち双子は、幼少期から同じ学校に通い、同じ友達と遊び、同じものを食べ、同じ服を着て、同じ時期に女優デビューをして、常に運命共同体だった。
小学校の頃は、クラスの男子達が「奈津子派」と「亜希子派」で真っ二つに分かれるほど、コンビでいることが当たり前だった。
「俺はお前よりも、姉の顔のほうがタイプだな」。
男子から面と向かって言われると、「ルッキズム!」と心のなかで発狂したくなった。
しかし当時の私は、自分の感情を言語化する手段を持っていなかった。
ある時「姉よりも自分が可愛くなれば問題は解決するのだ」と思いつき、私は上目遣いをして歩くようになった。
自分のなかで“媚び”という感情が芽生えた瞬間だが、なぜか私の心は満たされなかった。
◇
その後も、姉に対する憎しみを抱えたまま生きていた私は、ある時「ロシュフォールの恋人たち」という映画を観た。
映画は、フランスの小さな海辺の街・ロシュフォールを舞台に、主人公デルフィーヌが双子の姉ソランジュと共に繰り広げる青春群像劇であった。
デルフィーヌ役をカトリーヌ・ドヌーヴが、そしてソランジュ役を彼女の実姉フランソワーズ・ドルレアックが演じたことで、1967年の公開当時から話題になった作品らしい。
ともに音楽業界で生きる双子が、理想の男性に巡り会える日を夢見て生活を営んでいるところから物語は始まる。
彼女たちは、この小さな田舎町を出て、いずれはパリで成功したいという野望があった。
ある時、姉のソランジュのほうが先に愛する男性を見つけて結ばれてしまう。
デルフィーヌは姉の結婚を祝福しながらも、「自分の幸せは一体どこにあるのだろう」と打ちひしがれる。
自問自答を繰り返すなか、最終的に彼女は姉との日々に決別し、第二の人生を歩むためにパリに向かう――そんな内容だった。
◇
私はこの作品を観た時、あまりの驚きに腰を抜かした。
これは私のための映画である。いや、むしろ、私のためだけの映画だ。
これほどまでに登場人物たちに感情移入する経験は、未だかつてなかった。
物語の終盤、デルフィーヌはかつて交際していた男性から執拗に復縁を迫られるが、毅然とした態度で断る。
すると男性は、観念した様子で彼女にこう告げるのだった。
「君の運命の人とは、きっとパリの大通りで巡り会えるさ」と。
一抹の寂しさを抱えながら、その言葉を信じて新しい一歩を踏み出すデルフィーヌ。
その姿はまるで、私そのものだった。
前途に余韻が感じられるラストシーンを観たあとで、私はひとつ、自分が大きな勘違いをしていたことに気づいた。
それは、私が姉に抱えていた感情は「憎しみ」ではなく「妬み」であったこと。
そして、私は姉を深く愛しているからこそ、姉という存在を越えたかった――ということである。
最後になるが、姉・ソランジュ役のフランソワーズ・ドルレアックは本作が公開された年、ニース空港に向かう途中で事故に遭い25歳の若さで死去している。
スクリーンのなかに、永遠の姉妹愛を封じ込めたまま。