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【谷原章介店長のオススメ】古市憲寿「ヒノマル」 「正義」を押しつける怖さ、現在に重なる

谷原章介さん=松嶋愛撮影

軍国少年の成長を細やかに描写

 ロシアによるウクライナ侵攻という事態が起こりました。胸のつぶれる思いで日々の動静を見守りながら、また、言葉を慎重に選びながら、連日、朝の情報番組で伝えています。そして私たちはここ2年、コロナ禍という檻に自らを閉じ込めている。こうした表現が決して適切でないことは重々承知のうえで、とてもタイムリーであり、現実とシンクロしていると思わずにいられない一冊に出会いました。古市憲寿さんによる長編小説『ヒノマル』(文藝春秋)です。

 古市さんは僕がMCを務める番組で、コメンテーターとして出演しています。社会学者であり、これまでも短編小説は発表してきましたが、長編は初めてとのことです。舞台は1943(昭和18)年、夏。国家のために死ぬことを夢見る軍国少年・勇二と、歴史学者の娘・涼子が、横浜北郊の公園の一角にある洞窟のなかで出会います。「日本は戦争に負ける」と言い放ち、自由奔放に振る舞う涼子。それに対し、「神の国」を信じてやまない勇二は怒り――。

 ページをめくり始めると、戦時中の日本を覆っていた、あの閉塞感が、リアルに浮かび上がってきます。たった数年前までは、「わがごと」として共有しきれなかった閉塞感です。どうしたって、コロナ禍の現代社会のこと、そしてウクライナのことを、時空を超え思い浮かべずにはいられなくなる。さらには「国のあり方」について、僕らと「国」というものに対する距離の取り方についても、考えずにはいられなくなってくるのです。

 コロナパンデミックを境に、平穏な日常はすっかり「非日常」に変わり、もう元には戻れません。渡航もままならず、ディスタンスを強いられ、行動を制限される。この社会的なプレッシャーたるや。そして社会正義の名のもと、「自粛警察」がはびこり、公衆衛生に対する偏ったスタンスを声高に叫ぶような人まで現れ始めました。自分が「正義」と思うものを他人に押し付ける、その圧の強さに底知れぬ恐怖を覚えます。

 80年近くも前の日々を描いた物語のなかでは、こんな言葉が語られます。勇二の友達で、検事を父親に持つ啓介が、勇二をこう諭します。

 「俺からの助言は、必要以上に目立つべきじゃないってことだ。敵は上なんかにいない。上はもっと上に媚びを売るのに必死だからな。敵は隣にいるんだ。誰かがおいしい思いをしていないか、誰かがずる賢く振る舞っていないかを、血眼になって探している。普段は息を潜めていても、標的を定めたら、一気に隣同士で連携して、そいつを叩きのめす」

 「俺の親の職業を知っているだろう。検事の息子が空襲を恐れて軽井沢に疎開したとなれば、誰に糾弾されるかわからない。今の時代、道徳や嫉妬が法律なんだ」

 国民を取り締まる立場にある父を持つ、友人・啓介の言葉は、現代を生きる僕らにも鉛を飲ませてくるようです。非日常のもとでは、他人のささやかな日常に対してさえ、否定し、他者を思う想像力がおそろしく萎縮していってしまうのだということを、この数年で僕は思い知りました。僕自身だってそうです。「渋谷駅の前で路上飲みは……」というニュースを伝えた時、ゴミの置き去りはいけませんが、ともすれば、僕のトーンは非難めいたものだったかも知れません。だいたい、路上飲みはコロナ前だってあったのです。僕自身、余裕がなくなり、神経質になっていたのかも知れない。そんな「空気」で、人や社会は変容していく。その怖さを、社会性をもった動物である僕たちは肝に銘じておきたい。

 同時に、ことウクライナに関しては、「外側」にいる僕たちが今、彼らを「こうする事が正しい」と批評することに、言葉は若干乱暴かも知れませんが「残酷さ」を覚えます。複雑な歴史が両国にはある。外側から簡単に判断できるものではないと、僕自身は考えます。たとえ生きながらえたとして、国がなくなってしまったら。あるいは逆に、国が残っても命がなくなってしまったら、その「国」とは一体、何なのか。理不尽な侵攻に遭った時の対処は、一人ひとりが選択していくより他はないのだろうか……、答えがなかなか見つかりません。当事者でない僕らは、思いを持って伝えることはもちろん大事だとは思うのですが、同時に、「当事者ではないこと」を、強く意識して発言していかなければ、と思います。

単純な二元論を超えて、考え続ける大切さ

 個人の命、自由より「国体維持」こそ――。この本の描く頃の日本社会はそんな風潮でした。著者である古市さんが焦点を当てるのは、愛国心の旺盛な勇二の心の変遷、成長です。勇二とは対照的に、知的で哲学的な思考を持つ兄・優一は、じつはジャジャ馬・涼子の交際相手であることが判明します。それを勇二が知ったのは、こともあろうに慕う兄の学徒出陣が近づいた時でした。兄と、激しく反発しつつも同時に惹かれる涼子に対する、勇二の心の描写。何と細やかで、いじましいことか。

 そして1943年10月21日、冷たい秋雨が降る東京・神宮外苑では、「出陣学徒壮行会」が開かれます。史実に即したその日を、勇二と兄、涼子の3人は、帝都・東京の街でどう迎えたのか――。このあたりのシーンが、一つの大きな読みどころです。ファンタジー要素の強いその場面は、狂った時代を生きざるを得ない日々のなか、強い印象を残します。一見、気が強い涼子は、しっかり自分の足で立とうとする。その姿が健気で、とても好もしく思いました。涼子の家は、ある「事件」をきっかけに、周囲の人たちから石を投げられる事態となりますが、そんな最中でも、凜とした姿勢を崩さない。

 それから涼子の父、歴史学者の潤さんは、終始自制的で、娘に対する深い理解を持っています。軍国主義者、特高警察、カネや色事に汚い軍需工場の工場長……、唾棄すべき人物が跋扈するなかを、常識を失わずに正気を保って生き続けます。涼子の父の存在があるからこそ、主人公・勇二はブレずに生きていけるし、自分自身で悩み、思考を積み重ねていける。一つの座標軸のように読めるのです。

 あらためて、第二次世界大戦の頃の日本のことを思い返してみます。この本にあるように、当時、天皇陛下は「神」でした。「人」ではありません。戦争に敗けた翌年の1946年1月1日、昭和天皇は、天皇を「現御神(あきつみかみ)」とするのは架空観念であると述べ、自らの神性を否定しました。この、いわゆる「人間宣言」以降、昭和、平成、令和と現在に至るまで、皇室は大きく変わりました。かつては「国という装置」が「神」にしていた。その「装置」が、いわば体よく神を「利用」していた。盲信し、突き進むことが、いかに恐ろしいことであるかを、改めてこの本から感じます。

 平成の天皇は、そういった「昭和」の影をずっと見つめ続けてきた方であると僕は推察します。南方への慰問や戦争戦没者の慰霊、国内各地な被災地に駆けつけ、国民に寄り添っておられる。翻弄された「昭和」という強い光と影の、影の部分をひたすら見つめ、国民に寄り添って生きてこられた方だと僕は捉えています。ただ、平成以降の天皇に果たして自由はあるのでしょうか。天皇制について思いを馳せる瞬間が、ままありました。

 「どうして俺が生き残っちゃったんだろうな」
 「生き残ることは罪じゃないでしょう」

 玉音放送が響き渡り、何もかもが終わった夏、生き長らえた登場人物たちが掛け合った言葉が、いつまでも心に残ります。

 著者の古市さんという人物は、どこか「古市というコメンテーター」を演じている人なのだと僕は捉えて見ています。ときおり、普通の人なら使わない表現で、まわりのコメンテーターを刺激する発言を放ちますよね。でも、ああいったふるまいは、あくまで「タマネギの一番外側の皮」みたいなもの。彼の本質ではないと想像します。じつは愛情深く、周囲に気を遣う。だいたい「キス」のことを「唾液の交換だ」なんて言って彼はよく否定するのですが、この本のなかで、登場人物たちが、どれだけキスに執着していることか! ある時、そのことを突っ込んで聞いてみたら、彼は苦笑いしていました。

 疫禍のうえに、戦禍の重なった春。理想論だけで邁進できた時代は、情勢の変化とともに終焉を迎えてしまうのかも知れません。それでも、「何が正しいか否か」といった単純な二元論ではなく、対話を重ね、熟考して舵を切っていかなければ。そんなことを、今一度強く考えさせられる一冊だと思います。

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(構成:加賀直樹)