最初は映画「シン・ゴジラ」について語ろうと思い、量子科学技術研究開発機構で講演したときのメモを読み直していた。ゴジラが吐いているビーム状のアレはなんなのか、ということを第一線のビーム研究者たちに質問した、とっておきのメモだ。しかし、「過去に人生や作家としての仕事に大きな影響を与えた題材」というのがお題であると気付いて緊急停止ボタンを押した。今のところ、作家としての仕事に「シン・ゴジラ」は大きな影響を与えていないからだ。
「現実 対 虚構」というのが「シン・ゴジラ」のメインテーマであるが、怪獣の登場という「あり得ない出来事」を政治と官僚機構に対する徹底的な取材によってリアリティを持って成立させてしまった。
私は「事実は小説よりも奇なり」という言葉が嫌いだ。特に「フィクションなんかより現実の方が面白い」というように一般化されて使用されているケースに遭遇するとため息をつきたくなる。恐らくそのような使い方は、詩人バイロンの真意からも外れているだろう。一方、「フィクションのようにドラマチックな現実」に多くの人々が胸を打たれることも、まぎれもない事実である。
「小さな命が呼ぶとき」は、事実に基づいた映画だ。
アメリカ人、ジョン・クラウリーは、大手製薬会社のブリストル・マイヤーズ・スクイブの31歳の市場調査担当取締役だった。その3人の子のうち1歳の長女メーガンと、生後間もない次男パトリックがポンペ病と診断される。ヒトはエネルギーをグリコーゲンとして蓄え、グリコーゲンを分解してブドウ糖として使う。ポンぺ病患者ではこのグリコーゲンを分解する酸性アルファグルコシダーゼというタンパク質に障害があり、グリコーゲンを分解できない。そのため細胞に蓄積されて深刻な筋力低下を引き起こし、やがて臓器の機能も障害されて死亡する。
ジョンは製薬会社の取締役とはいえ、医学分野では素人同然だった。それでも放っておいたら死を待つしかないメーガンとパトリックの命を救うため、ブリストル・マイヤーズ・スクイブの取締役を辞し、バイオベンチャー企業、ノヴァザイムを設立する。様々な苦労を乗り越えながらも、タイムリミットである「愛する子供の死」が迫る中で、ジョンは大胆な決断をする。実績のあるライヴァル企業であるジェンザイムに会社を売却したのだ。
売却後も副社長兼開発責任者として様々な問題に直面したジョンは、それらを解決しながらも最大の問題に直面する。それは、治験薬を3歳以下に限定した方が必要とする酵素が少なくて済むが、育ってしまっていた(それゆえに残された時間の短い)ジョンの子どもは対象外になってしまうという問題である。企業の責任者として、わが子に治験薬を投与することによる利益相反を解決するために、ジョンは会社を去る決断をする。以上が、映画の元になった事実。
ブレンダン・フレイザー演じるジョンの相棒として登場する、ロバート・ストーンヒル博士役はハリソン・フォード。原作に惚れ込んだハリソン・フォードは、自らが製作総指揮を務めている。映画では現実とは異なる様々な脚色が加えられているが、基本となるストーリーは現実にあったことをトレースしている。
ジョンは子供たちのために、原題である「Extraordinary Measures(非常手段)」の通り、手段を選ばずに打てる手を次々と実行し、文字通りすべてを捧げて、世界初のポンぺ病治療薬を実用化に持ち込んだ偉業は、今では製薬業界のレジェンドとなっている。
私はこの素晴らしい映画に影響されて、二つの小説を書いた。一つはバイオテロを描いた『時限感染』(宝島社)。主人公の一人、桐生彩乃はポンぺ病患者で、そうであるが故に犯人の思考をトレースして「すべてがあべこべになった真実」にたどり着く。
もう一つはこの3月に刊行されたばかりの「テウトの創薬」(KADOKAWA)で、バイオベンチャーそのものを主題に据えた。
本作では創薬に対して、異なる想いを持つ人間たちがぶつかり合う。モダリティと呼ばれる、薬のタイプによる対立、問題解決のための手法の違い、官と民、ベンチャー企業と大企業の対立。過去と現在のせめぎ合い。そして一般にはあまり知られていない研究と開発の衝突。
バイオベンチャーは現在、世界の新薬の6割を生み出していると言われ、コロナ禍で注目を浴びたファイザーワクチンもモデルナワクチンもバイオベンチャー発である。
ジョン・クラウリーがわが子のために製薬会社を立ち上げたように、大集団ではなく、より小さな患者集団や個人を見つめ、創薬に繋げることで今日のバイオベンチャーの黄金期がある。集団よりも個性に注目するという世の中の流れが、創薬にも生じているのは素晴らしいことだ。「テウトの創薬」でも希少疾患が物語の大きなテーマとなっている。これからも、希少疾患とバイオベンチャーを見つめ、創作に盛り込んでいきたい。