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光秀は本能寺にいなかった――新説根拠の古文書読み解く本 戦国史の謎に、異聞から迫る

「『乙夜之書物』はもっと注目されていい史料だと思います」と話す萩原大輔さん=3月、富山市

信長最後の言葉、安土城炎上…通説に一石

 織田信長が討ち果たされた本能寺の変(1582年)の当日、首謀者の明智光秀は別の場所にいた――。昨年1月に報道され、話題となった新説の根拠となった史料を読み解いた「異聞 本能寺の変―『乙夜之書物(いつやのかきもの)』が記す光秀の乱―」(八木書店)が3月に刊行された。存在は知られていたものの、内容がほとんど紹介されてこなかった「乙夜之書物」の初の概説書であると同時に、日本史の大きな謎の一つとされる本能寺の変の深層に迫った研究書として注目される。

 著者は富山市郷土博物館主査学芸員の萩原大輔さん(40)。「乙夜之書物」は加賀藩の兵学者だった関屋政春(1615~85)が1669(寛文9)年から71年に書き留めた3巻3冊の記録で、関屋が聞いた戦国期の様々なエピソードなどが524条にまとめられている。関屋の自筆本で、奥書に「他見を禁じる」とあったため写本などが作られず、詳細な内容はほとんど知られていなかった。

 2020年秋、萩原さんは、金沢市の市立玉川図書館近世史料館で「乙夜之書物」の原本を閲覧。同書の中から北陸地域に関する記述を探していた際、本能寺の変に関して、光秀の家老だった斎藤利三の三男が語った話として、光秀は利三らに2千余騎を預けて本能寺へ差し向け、自らは後方に控えていた(「鳥羽ニヒカヱタリ」)、とあるのを見つけた。

 「考えてみれば、そもそも光秀が本能寺へ直接攻め入ったことを裏付ける一次史料は存在していない。にもかかわらず、当時の公家の日記などのあいまいな記述をもとに、あたかも光秀が陣頭指揮をとったようなイメージが通説になってきた。今回の記述の存在は指摘しておくべきだと思いました」

 新説は昨年春、研究誌「富山史壇」に論文として発表されたが、「乙夜之書物」にはそれ以外にも従来の戦国史を覆す記述が多く確認された。そこで1年がかりで今回の著書を書き上げたという。

 5章構成で、中核となる2~4章は本能寺の変のはじまりから光秀が豊臣秀吉に討たれる山崎合戦までが、「乙夜之書物」と他の史料との比較などから語られる。

 一方、5章ではテーマを広げ、本能寺の変の勃発時に堺にいた徳川家康が領地の三河まで逃げ帰った「神君伊賀越え」や、佐々成政が冬の日本アルプスを越えた「さらさら越え」などのエピソードなどが紹介されている。

 各章は原文の写真、読み下し文、大意、解説という構成で、学術書でありながら、非常に読みやすいのが特徴。

 中でも、信長が他者に最後に発したと思われる言葉は侍女にあてた「皆は(居間の外へ)出よ、出よ」だった▽安土城に放火したのは明智の軍勢ではなく、信長の次男の織田信雄だった、などとした分析は注目される。

 このほか、豊臣秀吉の小田原城攻め(1590年)で伊達政宗が遅れて出頭した際、覚悟を示すために死に装束を身につけていたという通説についても、「これまでは、その根拠として『関屋政春覚書』という文献があげられてきたが、自筆の『乙夜之書物』にそんな記述はない。後世の創作ではないでしょうか」と指摘する。

 「『乙夜之書物』を『江戸時代の史料で、聞き書きに過ぎない』という人がいるが、それぞれの挿話に関して、関屋が誰から聞いたかがきちんと記されている場合があり、それによって談話の信憑(しんぴょう)性がある程度判断できる点は評価すべきだ。それをおさえたうえで、今後、この史料とどう向き合っていくのかが課題でしょう」(編集委員・宮代栄一)=朝日新聞2022年4月20日掲載