「七つ道具」で命がけの歯みがき
――夜になると、頭に懐中電灯をつけて長靴を履き、七つ道具を持って床下へ降りる「ぼく」。巨大なワニはギロッと睨んでくるけど、歯みがきだとわかると「ああーん」と口を大きく開けます。2018年に月刊絵本として刊行され人気だった作品が、このたび単行本として発売されました。お話はどのように生まれたのですか?
ねじめ正一(以下、ねじめ):はじめに思いついたのは、「家の床下の、見えないところに、何かいる」という話です。それが実はワニで、床下には川が流れ、ナイル川までつながっていると。ただこのワニは、よく絵本に出てくるような、一緒に遊べる楽しいワニじゃない、恐いワニでね。少年とワニは確かに友達ではあるんだけど、安心しきった友達ではないんですよ。
ワニにとって歯は命の次に大事なもので、同時に、少年にとっても、歯みがきは命がけです。ワニは本来獰猛な動物ですから、油断したらひと飲みで食べられてしまう。だからワニの口につっかえ棒をしたり、布団バサミでベロを巻いて挟んだりして、食べられないように工夫するわけです。
――七つ道具の登場がかっこいいですね。
ねじめ:少年の消防隊みたいな服装もいいよね。歯ブラシの持ち方が、消防ホースを抱えているみたいで(笑)。最初の原稿を書いたのが2012年。しばらく話が進まなかったけれど、歯ブラシが登場してからうまく「歯みがき」の話になりましたね。七つ道具は、歯の間に挟まったものを取る楊枝や、虫歯を探す虫眼鏡……この他にもいろいろアイデアが出て、七つに決まるまでは大変でした。最終的にはうまくいったかなと思います。
床下は「地下世界」、口の中は「洞窟」
――ねじめさんの文章を読んだとき、コマツさんはどんなふうに思いましたか。
コマツシンヤ(以下、コマツ):読んですぐに家の断面図のページが頭に浮かびました。あと、「ワニの口の中に入るのが面白いな」と。床下は “地下世界”、口の中は“やわらかい洞窟”みたいなイメージでした。
――実際にどのように絵を制作しましたか。
コマツ:手のひらに乗るくらいの、ワニのミニチュアを横に置いて、見ながら絵を描きました。けっこうリアルに作られていて、口がちゃんと開くようになっているものです。
難しかったのは、少年がワニの口の中で仰向けになるところを、正面から描いた場面で、紙粘土でワニの口の形を作り、どの角度からだとどういうふうに見えるかなと、あれこれ試しながら描きました。
自分が住んでいる地域には、川があって、子どもの頃から、大雨が降るとすぐ氾濫します。川沿いに床が高く作られているレストランがあり、建物の下に入れるので、子どもの頃はよく潜って遊んでいました。『ゆかしたのワニ』には、そこで遊んだ記憶や感触も入っています。
コマツさんの絵には風が吹いている
――ねじめさんが、コマツさんの絵を見た印象はいかがでしたか?
ねじめ:「僕の絵本でなく、コマツさんの絵本になったな」と(笑)。絵を見た瞬間から、もうコマツさんが描いた家とワニしか思い浮かばなくなっちゃったもの。そんなふうに描いてもらえるのは嬉しいですよね。
床下で蠢く生き物やワニの歯に挟まった鶏肉のスジを、コマツさんは細かく描くんですよね。ジメジメした湿気が伝わってくるし、そもそも歯に詰まったものなんてきれいじゃない。でもコマツさんの絵は細かさの一方、どこか清潔で風通しがいいんですよ。僕は赤瀬川原平さんの絵が好きなんだけど、このどんどん細かく描いていけそうな感じと、前向きでカラッとしたところがあるのが、赤瀬川さんの絵の世界にちょっと通じるものがあると思いました。
――コマツさんは、赤瀬川原平さんやつげ義春さん、絵本作家としても活躍する佐々木マキさんら、個性的な作家を多く輩出した伝説的漫画雑誌「ガロ」(青林堂)の後継誌と言われる漫画雑誌「アックス」(青林工藝舎)でデビュー。『睡沌氣候』(同)、『8月のソーダ水』(太田出版)など、繊細な魅力に溢れる世界を描いています。本書の後には絵本『ミライノイチニチ』(あかね書房)で絵と文の両方を手掛けました。
コマツ:高校生くらいから、マンガを描いていて、自分が描きたいものはマンガと絵本の中間にあるのではないかと、長新太さん、佐々木マキさん、たむらしげるさんの絵本を読みながら表現方法を模索していました。実際、マンガを描こうとすると絵本っぽくなり、絵本はマンガ寄りになって、毎回バランスが難しいです。描き込み続けて、制作を止められずに、いつまでも絵が描き終わらないこともしばしばです。
この本ももっと背景を描き込んでいたのですが、「あまりゴチャゴチャしても、ワニと少年の歯みがきがボヤけちゃうな」と思って削りました。それが絵本として良かったかなと思います。
子どもの視点から「裏」を描く
――詩人であり小説『高円寺純情商店街』(新潮社)で1989年に直木賞を受賞したねじめさん。子ども向けの作品も多数書いていますが、最初に書いた絵本は何ですか。
ねじめ:1986年刊行の『あーちゃんちはパンやさん』(福音館書店)です。「商店街の子どもの視点」で書いた作品で、井上洋介さんがすごくいい絵を描いてくれました。僕は東京・高円寺の商店街の、乾物屋の息子として育ちました。親父は俳人でもあり、商店の人間同士の仲も良くてね。ただ『高円寺純情商店街』にも書いたけど、人間が生きている場所はきれいごとだけじゃなくて、裏ではいろんなことがあるし、床下で猫が死んでいたりする残酷な世界ですよ。
僕が絵本を面白いなと思ったのは『100まんびきのねこ』(ワンダ・ガアグ/文・絵、石井桃子/訳、福音館書店)に出会ったときです。おじいさんとおばあさんがたった1匹の猫を迎えるために、たくさんの猫が死んでしまう。でもそういう残酷さをどう描くかが大事で、子どももそれを分かっているし、求めているんじゃないかと思ったんです。残酷といってもそこにはユーモアもくっついてきていますしね。
――世の中の裏側を、子どもの視点から描くということですね。
ねじめ:詩人として言葉のギリギリのところを攻めたいという気持ちがあったと思います。物事をどう書いたら、人に届くのか。乾物屋から民芸品店に商売替えをした親父の跡を継ぎ、妻に半分以上家業を押し付けながら、1980年代~90年代は詩の朗読をしたり、テレビに出たり、ラジオの深夜番組のパーソナリティを務めたり……。絵本も、詩人の可能性を探る一つで、言葉をひとつずつ、ちぎっては投げ、ちぎっては投げしながらとことん“変”なところまで言葉を持っていくことで、ねじめ正一ならではの「子どもの視点」を書いてきた気がします。
歯と友達は大事
――『ゆかしたのワニ』は完成まで約6年かかったことになります。
ねじめ:僕は今日(取材日の6月16日)、74歳の誕生日だったんですけど、これからも編集者を困らせたいと思いますね(笑)。この絵本は、別に「歯みがきしなさい」なんていう絵本じゃないんだけど、この年齢になると「歯は大事だなあ」と身に沁みます。歯が健康じゃないと、本当に、何を食べても美味しくない。年を重ねて分かったことです。
――結局、最初から最後まで、なぜ少年がワニの歯みがきをするのかについての説明はありません。シュールな設定と、ワニと少年の緊張感の中にも、どこか友情のようなものが漂います。
ねじめ:このお話って、少年が一方的にワニにいろいろしてあげて、ワニは何もしてくれないんだよね。ワニは、やってもらって当たり前だと思ってる。でも、どこかでワニも、この子の思いに応えている感じがありませんか?
コマツ:口が閉まりかける場面に、「この子を食べないようにしよう」という必死なワニの葛藤みたいなものがありますよね。
ねじめ:そう。口の開け方、閉じ方で、ワニの愛情が表現されているんですよ(笑)。なぜ歯みがきをすることになったのかは僕にも分からないけど、少年は命がけでワニの大切な歯を守ってくれる存在ですから。こんな友達がいたら、どんなに素晴らしいでしょうね。