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「超傑作選 ナンシー関 リターンズ」 消しゴム版画と傑作コラムで振り返る90年代

石田純一、いしだ壱成父子 遺伝する「ありきたり演技」

 スターになるための条件に、「演技が上手い」というのが必ずしも必要なわけではない。スターのオーラの前には、演技なんてチンケなものはなんぼのものか、という事をまず言っておこう。

 石田純一、いしだ壱成父子は、テレビ的に見れば最もちゃんと売れている二世代俳優といえる。同時期にそれぞれの主演連続ドラマがオンエアされていた(『長男の嫁2』『未成年』)というのは、前例が無いのではないか。別にあってもいいのだが。

 で、石田純一の演技は下手だなあ、という話なのである。『長男の嫁』みたいなホームドラマはまだ目立たないのであるが、悲恋モノというか「泣」いたり「怒」ったりすると、途端に「石田純一にとって演技とは何か」みたいなものが全部バレるような気がするのだ。

 演技が下手というのは、上手いというのがそれぞれであるように、いろんな下手さがあると思う。末端に神経が通っていないような「でくのぼう」系の下手に関しては、私は好意的である。しかし残念ながら石田純一の下手さはそれではなく、ある意味ではその対極にある種類の下手さなのだ。

 石田純一は、「この感情を表すにはどうしたらいいか」をたくさん知っていると思う。知っているし、それを体現する技術も持っているのだろう。それは、熱心の証拠かもしれないし、いわゆる引き出しが豊富ということなのかもしれない。しかし、簡単な言葉で言ってしまえば「ありきたり」だ。

 ここで、石田純一が出るようなテレビドラマは「ありきたり」で十分ではないか、というのもある。でも石田純一の「オレのありきたり」は、ちょっとへんなところがある。それはそもそもの感情の理解の仕方に問題があるように思うのだが。ワナワナと怒りに震える(ほどの怒り)というと、本当にワナワナ震えたり、さわやかな笑顔で青空を見上げるとなると、見上げた時の口の形が「サワヤカッ」の「カッ」の発音に開いてたりとかする。ように思う。

 最近だと、ヨーグルトのCMで「明治ブルガリアヨーグルト」と一節歌うやつがあるが、あの何とも言えない作為的な歌の下手さ(わざと声を前に出さない、わざと音程を不安定にする、わざと滑舌を悪くする)は、おそらく「ちゃんと歌わない」という演技プラン(そう注文があったのかもしれないが)を体現した結果だと思う。見てる人に、作為的とまで思われちゃ、その演技は失敗だ。そう、この「失敗」がひじょうに多いのである石田純一。

 息子のいしだ壱成。人気者だ。いいキャラクターだとは思う。でも演技の「下手の方向性」が、お父さんとすごく似ている。思春期の胸をかきむしられるような焦燥感を体現しようとして、本当にシャツの衿のあたり引っぱってたりしなかったか。結論を出すのは早急すぎるが、血は水よりも濃しか。(『噂の真相』1996年2月号より)

日本の英語教育が「魂」の問題をなおざりにしている理由

 NOVA、ECC、イーオン、ジオス、ベルリッツ、かと思えばケント・ギルバートの英語学校、家出のドリッピー、小林克也の英語CAN、生島ヒロシの英会話本まで、テレビや雑誌では「英会話」が両手を広げて待っている。英会話の習得はブームというよりも、日本人の永遠の見果てぬ夢だ。ま、よく引き合いに出される話ではあるが、中・高校とあんなに英語習って、喋れもしないとは何事だろうか。

 かく言う私も、もちろん英語は喋れない。そして多くの人と同様「英語できたらいいだろうなあ」とも思っている。「喋れない。喋れたらいいなあ」は、まさに戦後日本人が英語に対して抱き続けてきた、最も平均的な想いだ。しかし私は、積極的に「喋るための英語」を習おうとしたことさえない。「喋れない。喋れたらいいなあ」の思いのあとに、私にはもうひとつ「でも喋れるようになるのが怖い」というのがあるのである。

 何が怖いのか。説明するために、今一度「中・高校6年間英語やっても喋れないのは何故か?」に話を戻したい。たとえば「apple」という単語があるとすると、単語の意味と発音を学校では教える。しかし、それで喋れないということは、教えてくれていないことがあるということではないのか。それは、アメリカ人(というのも乱暴な話だ。英語圏の人たちとしなければならないところだが、とりあえず)のapple観みたいなものではないのかと思うのだ。「アップル」とか「アポゥ」などと言いながら、日本人の頭の中に思い描かれているのは青森や長野産のりんごである。それじゃあ本当の「apple」を伝えられるはずがない。アップルぐらい通じるわと、突っ込まないように。

 ま、appleはいい例ではなかったとして、技術(発音)と知識(意味の解釈)だけではどうにもならないことは事実としてある。「ワォ!」とか「オーマイガーッ」とか「アンビリーバボゥ」といった英語を喋れるか喋れないかは技術や知識の問題ではなく、魂の問題なのだ。日本の学校教育における英語はこの「魂」についての問題を全く顧みていないのである。

 そして、そんな学校教育を終えたあと再び「喋れる」ように教育する機関(冒頭に列挙した学校や通教など)は、おそらく「魂の改造」に主眼を置くのではないかという予測を、私はするのである。よく耳にする「少人数制」とか「先生はみんな外国人」とか「1日10分聞くだけであなたはもうドリッピーのとりこ」などといううたい文句も、全てとりあえず「ワォ!」と言える人格に持っていくためのコントロールのような気さえする。

 私が怖いのはコレである。目を丸くして肩をすくめて「ワォ!」なんて言える人間に、自分が改造されてしまうことが何よりも怖い。「ワォ!」と言えたら、人の話に「ハハァン」と相槌打つことも、言い淀んだ時には「アーン」なんちゅう独特なつなぎ方をするのもお茶の子さいさいだ。私のアイデンティティは崩壊するだろう。

 日本の学校が本気で英語を教えない理由はここにある。本当にみんなが中・高校で英語(会話)をマスターし、みんな心底「ワォ!」が言えるようになってしまったら、日本人の国民性は変わってしまうだろう。きっとガムの売り上げは倍増するな、とりあえず。おとなしくて従順な日本人を保つため、「魂」をいじらないのではないのか。

 このあいだ社交ダンスの雑誌を見ていたら日本のトッププロが「世界的大会で上位を狙うには、イギリス人になりきらないといけない」と語っていた。やはり最後は魂の問題だ。でも最近は、技術うんぬんの前に「魂」だけ先走りしてるってのも多い。日本人のチアリーディング、日本人のエアロビクス、日本人のDJ(の一部のスタイル)。英会話も含めて、いろんな外来モノの習得・上達と日本人のアイデンティティの両立の方法はないもんなんだろうか。(『日経ウーマン』1996年4月号より)

「超傑作選 ナンシー関 リターンズ」(世界文化社)より