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世界が待つ、蜘蛛の振る舞ひ 青来有一

イラスト・竹田明日香

 「蜘蛛(くも)の振る舞ひ」という古いことばがあるそうです。巣をつくるときのクモの独特の動きのことで、恋人など待ち人が来る吉兆だと考えられたと古語辞典に説明がありました。

 クモが尻先から左右の後脚で糸を引っ張りだすようにして巣を張りめぐらせていく様子を見たことがあります。獲物を捕らえる網をせっせっとはるあの動き、糸にぶらさがったり這(は)いあがったりといった動きもまじり、クモ嫌いのひとは鳥肌が立つかもしれません。あの様子を吉兆だと考えるとしたらよほどせっぱつまって追いつめられて、不安にゆれながら待ち焦がれているということなのでしょう。

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 実家の庭の草木が鬱蒼(うっそう)と繁(しげ)り、2月には裸の枝に可憐(かれん)な白い花だけがほころんでいた梅も、新しい枝葉が伸びて実をつけました。丸々とした二十数個の実をもぎり、水で洗い、ヘタを取り除き、冷凍室で凍らせ(組織がこわれやすくなるそうです)、氷砂糖といっしょにガラス壜(びん)に漬けたのが一カ月ほど前だったでしょうか。

 梅の実もしだいにしぼみ、今では薄い黄色の果汁のなかにしわだらけの実が浮いています。氷砂糖もとけて梅シロップがまもなく飲めるはずで、毎日、ガラス壜をながめては楽しみに待っています。

 熟成や育つのを待つというのは、待ち焦がれてクモに吉兆を託さないではいられない心情にくらべたら平和なゆったりした時の過ごし方なのかもしれません。

 梅雨入りが伝えられてまもなく、実家の庭の地面にはドクダミの白い花が一面に咲きました。ドクダミは臭いがあり、葉の色が暗いせいか、地面をおおうとなにか暗鬱(あんうつ)な感じがします。雨上がりの午後、軍手をしてむしるつもりで濡(ぬ)れた草むらに踏みこんだら、梅の木の背後とコンクリートの塀のあいだに雨のしずくできらきらと光っているクモの巣を見つけました。巣のまんなかに白と黄色の鮮やかな縞(しま)模様のジョロウグモがじっと獲物を待ち伏せしています。子どものころ、草むらで捕まえた小さなバッタをなにげなく巣にほうったら、クモが素早く這(は)い寄ってきて長い脚をからめ、糸でぐるぐる巻きにする残酷な光景を見て、あんぐりと口を開けたままになるくらい驚いたことがありました。

 柄の長いホウキを持ち出して巣をはらおうとしたとき、光る巣の中心でじっとしているジョロウグモだけでなく、流れていく雲や一面に咲いたドクダミの花も、今なにかを待っているといった予感のようなものが心をよぎっていきました。

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 太宰治の「待つ」という短編小説があります。「省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。」と始まり、二十歳の若い女性の揺れ動く心中が語られます。駅で人を待っているようですが、なにかが起きるのを待っているようでもあってはっきりはしません。「大戦争」が始まって買い物帰りに駅に立ち寄るようになったとあり、今読むとウクライナで不安に慄(おのの)きながら待っている人々のことが頭をかすめ、ロシアでも戦場の兵士の無事を祈るおもいで待っている人々がいるはずだと想像は小説を越えて広がるのでした。

 「世界は平和を待っている」。コピーライターはそう書くかもしれません。「戦争の終わり待っている、蜘蛛もドクダミもシロップの梅の実も……」。詩人ならそんなふうに書くかもしれません。小説家の太宰治は、女性のつぶやきとしてこう書きました。「いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。」。彼女が駅舎のかたすみで巣をつくる「蜘蛛の振る舞ひ」を見たらきっと願いがかなう吉兆だと信じるはずです。=朝日新聞2022年7月4日掲載