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「歴史とは何か」新訳、近藤和彦さんインタビュー 問いかける知識人、新たなカー像 

近藤和彦さん

 『歴史とは何か』は人文社会科学を学ぶ者にとって長らく必読の入門書となってきた。原著は1961年出版。戦後を代表する知識人・清水幾太郎の訳が岩波書店の論壇誌「世界」で連載され、岩波新書版(62年)はロングセラーとなり60年間読み継がれてきた。

 近藤さんはイギリス近世史、近代史の専門家だ。66年に大学に入り、この本を18歳の頃に手に取った。「カーが何を言おうとしていたのかを当時はよく理解できなかった」と話す。近藤さんは後にカーがいたケンブリッジ大学に留学し、英国の知的世界を体感した。「清水訳も当時としては練られたものだが、向こうの学者には絶えず冗談や皮肉を言い合っているような雰囲気があり、隠れたニュアンスもある。発言には額面通りに受け取るだけでは済まない含蓄が込められている」

 原著はカーが61年に大学で行った連続講演録だ。「密度が高く舌鋒(ぜっぽう)鋭い発言、ときにウィットのきいた冗談や皮肉で聴衆を笑わせながら回を重ねた。毎回最後は決めぜりふで締めくくっている」

 カーは2度の世界大戦と戦後の東西冷戦を生き抜いた。外交官として20年勤めた後、ウェールズ大学で国際政治学の教授となる。戦後は7年間の失業を経験し、55年にようやく母校ケンブリッジ大学のトリニティ学寮上級フェロー(終身)に。「講演当時は60代後半で既に健康不安を抱えており、名誉ある講演の機会を通して健在ぶりを示そうという意気込みにあふれていた」。講演は大きな反響を呼んだ。

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 今回の新訳は講演録本体260ページ余に、晩年のカーが準備していた第2版の関連資料や自叙伝、注釈、訳者解説、年譜、索引など130ページ余を添えた。カーの口ぶりを伝えようと(笑)という表現も各所に織り交ぜた。

 翻訳作業を通して見えたのは、カーの歴史観の深みだ。歴史とは「現在と過去のあいだの終わりのない対話」(近藤訳)だという第1講の決めぜりふが有名だが、議論は、歴史のエビデンス、歴史における主体性と客観性、歴史と未来はどう関係するのかなどに及ぶ。

 「世界帝国を築いたイングランドの国史根性と島国根性を批判し、各国史の足し算を超える世界史を説く。国際政治学者でソ連史研究者という従来のカー像を改め、単なる歴史家の枠を超えた20世紀のイギリスを代表する知識人と位置づけるべきではないか」

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 カーは82年に90歳で亡くなるまで元気で、ロシア革命とソ連の政治社会をめぐる大著『ソヴィエト=ロシアの歴史』(50~78年、全10巻14冊)を完結させた。

 「対ナチスドイツの融和姿勢が後に批判され、反ソ意識が高まる東西冷戦下では『赤い教師』と非難されることもあったが、カーは現実の社会主義や労働運動とは縁遠く、左翼とは言えない」。あまのじゃくで「『なぜ』としつこく問いかける動物」、つまり探究心が強い知識人だった、と近藤さんは見る。そもそも「歴史」とはギリシャ語で「調査探究」を意味する。

 「当時はスプートニク打ち上げ(57年)やガガーリンの宇宙飛行(61年)などソ連社会の合理性、先進性が注目されていた。ロシア革命(17年)後のソ連が、なぜ29年に始まった世界恐慌を計画経済で乗り切り、独ソ戦(41年~)で勝利できたのかというのがカーの関心事だった」

 カーは歴史哲学の観点からマルクスに関心を抱いていた。近藤さんは、カーの歴史学の特質を「理想主義と現実主義のはざまで、あくまでリベラルな観点から世の中を進歩させることを目指し、向かうべきユートピアを構想していた。進まないと見えてこないものがあると考えていた」と評価する。

 13年に出た近藤さんの著書『イギリス史10講』(岩波新書)は既に15刷を重ねている。「カー像の認識を新たにした今、20世紀イギリスの知的世界を描き直したい。イギリスの欧州連合(EU)離脱やプーチンの戦争などをふまえた現代史の描き直しにも貢献できるのではないか」。近藤さん自身の歴史学もまた歩を進めようとしている。(大内悟史)=朝日新聞2022年8月24日掲載

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こんどう・かずひこ 1947年生まれ。歴史学者、東京大学名誉教授。専門はイギリス近代の社会史、文化史、政治史。著書に『イギリス史10講』『文明の表象 英国』『民のモラル』など。