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鶴見済さん「人間関係を半分降りる」インタビュー 「距離が近い」はいい関係か? 既存の価値観疑い、生きづらさを解消

鶴見済さん

人間は醜いから、離れてつながる

――新刊『人間関係を半分降りる 気楽なつながりの作り方』では「人間には醜い面があるから、少し離れてつながろう」と提案しています。

 これまで生きてきた中で一番悩んだのはなんだっただろう? と振り返ってみると、自分は人間関係のことでした。特に大変だったのが高校生の頃と会社に入ったばかりの頃。高校生の時は、関係が固定化されていて狭い場所に人が密集する学校空間で、対人恐怖症(社交不安症)というか、人の目を気にし過ぎてしまう視線恐怖症になりました。大学では関係性が緩やかだったので改善したものの、会社に入ると視線の密度の濃い職場で、再びぶり返してしまいました。

 家庭では、兄から暴力を受けていました。10代の頃は夏休みが一番怖かったですね。親がいなくて二人きりになるのが嫌で、近所をぐるぐるまわったりしていたのですが、逃げられる居場所はない。「兄弟喧嘩は仲のいい証拠」といまだに言われますが、まったくそうではなく、20歳ごろから絶交状態です。当時から「家の外にゆるく誰かとつながれる場所があれば」と思っていました。

 学校や職場、家族、結婚、恋人などさまざまな関係性で、距離が近いことが安易に良いことだとされています。この奇妙な性善説が、自分の生きづらさの大きな原因になったと感じています。くっつきすぎるのではなく、流動的な、少し離れたつながりもあっていいんじゃないか。そう提案したいと考えました。

――安倍晋三元首相が殺害された事件に関して、「家族」について見直す機会にすべきだとおっしゃっていますね。山上徹也容疑者は、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)に母親が多額の献金をして家庭が崩壊しており、教団への恨みが事件の背景にあるとみられています。

 山上容疑者のことはすごく語られるんですけども、家族の問題であることは割とスルーされている。母親のやったことによって子どもがこんなに影響を受けるっていうのは、本当はあってはいけないことですよね。家族は昔から「運命共同体」と言われてきました。まるでいいことばかりのように捉えられていますが、山上容疑者の家族は悪い意味でまさに「運命共同体」になってしまっています。
 もっと家族がバラバラになれる方法や仕組みがあってもいいですよね。現状は、望んで一回バラバラになっても、親の介護などでまたくっつかなければいけないような仕組みになっている。例えば、自分のように家族間の加害があった場合、それも困るんですよ。少なくとも、山上容疑者の家庭も、もっと開かれていれば、これだけ問題を抱えることは避けられたんじゃないかと思う。そういうことをすごく考える材料であるはずなんです。

絶対視されている価値観を緩める

――「日本の殺人事件の半数が家族の間で起こっている」「一生子どもを持たない人は男性3割、女性2割」など、規範的な価値観を緩めるデータを多く紹介していたのが印象的でした。

 友情は素晴らしい、家族や母子の愛は絶対などとよく言われますが、昔から違和感を感じていました。実際、良い面も悪い面もあるものでしょう。それに、こうした考えが主流になっていくのは明治時代に西洋から、啓蒙思想やヒューマニズムが入ってきてからです。今はこの価値観が強くなりすぎたことで、負の側面があらわれてきていると感じます。

 人間関係からは離れますが、「生きることは素晴らしい」にも同じものを感じますね。学校教育の指導要綱の変遷をみると、戦後の道徳の授業の筆頭項目に「生命の尊重」があげられているんですよ。これは戦前にはなかったものです。戦争への反省から強調された側面が強くて、当時は必要だったと思います。しかし次第に反戦の意味合いは薄れ、純粋な生きることへの賛美だけが残りました。それは結果的に単純な死の否定へと向かい、かえって生きづらさを生んでいます。こうした不自然な状況に対し、価値観を緩めたいといつも思っています。

――鶴見さんの1993年のベストセラー『完全自殺マニュアル』にあった、「いざという最悪の時には死ぬことだってできるのだと思えば、楽に生きていける」というメッセージにも通じますね。

 当時は今以上に「強く生きろ」の時代で、死にたいと言えば「ふざけたことを言うな、命は素晴らしいんだから」とすぐに反論が来るのが普通でした。『完全自殺マニュアル』は、そうした価値観への抵抗でもあったと思います。

90年代に模索した「生きづらさ」の表現

――本書は人間関係を軸に現代の「生きづらさ」と向き合った一冊ですが、『完全自殺マニュアル』にも時代の生きづらさと向き合う側面がありました。約30年が経ち、世の中はどう変わったと思いますか?

 90年代以前の昭和の時代には「学校や会社へ行って、結婚して子どもを作って幸せな家庭を築く」という、生き方の雛形がありました。そこから少しずつ降りる人が出てきたのが90年代です。自分もそうで、会社をやめてフリーランスになりました。でも、それまでみんな雛形通りに生きようとがんばっていたから、降りた人のための道は今も整備されていないと思います。

 個人間で起こる不幸も今のように問題視されていませんでした。ハラスメントやDV、ストーカー被害、児童虐待などが問題になりはじめたのは90年代後半あたりからでしょう。いじめが社会問題になったのはもう少し早いですが、それでも80年代の半ば。それ以前は「子どもは喧嘩するものだから、大人は口出ししないほうがいい」と考えられていました。

 立場の弱い人への認識もまだまだでしたね。「生きづらさ」というキーワードはなかったので、自分でもどう表現しようか色々と模索していました。今はこの言葉が広まったことで誰もが語れるようになり、良い変化だと感じています。

――90年代と比べると、現代は価値観が多様化し、弱さを受け入れられる社会になっているのでしょうか。

 そうですね。一方で、まだ問題になっていない問題もたくさんあります。例えば親からの加害行為や夫婦間のDVは対処する法律ができましたが、兄弟の加害はいまだ一般的な法律で取り締まるしかない。ネットで検索しても「兄弟喧嘩は仲のいい証拠」といった記事が多く出てきて、まだ社会問題として認知されていない現状には不満があります。

 他にもハラスメントといえば職場で起きるもの、ストーカーといえば元恋人など恋愛感情のある人と固定化されていますが、それ以外にも問題のかたちがあるでしょう。みんなが問題だと認識していることだけでなく、認知されていない問題を考えていく必要があると思っています。

――本ではSNSについても触れていますね。SNSの普及も、90年代と比べると大きく変わったところです。

 SNSにはいろいろな論点がありますが、登場以前はこんなに人と自分を比較したかな、と考えます。つい自分をよく見せることに一生懸命になって、負けたくない気持ちが生まれるし、相手もそうしている。人とのコミュニケーションになるものだけど、悪い側面もたくさんあると感じます。

 物理的には離れているのに、心の距離が近づき過ぎてしまうという問題もありますね。頭に毎日思い浮かぶ人というのは、嫌な人であっても心の距離が近いんですよ。そうするとつい、頻繁に投稿を見に行ってしまう。物理的にすぐ近くにいるのと同じような状態なんですけど、本人はその距離感を認識できていなくて、怒りに翻弄されてしまう。ムカつくと思う人のことは見ないようにするなど、自分から心の距離を離す努力をする必要はあると思いますね。

「自分を変えろ派」と言われるけれど

――鶴見さんの『完全自殺マニュアル』『人格改造マニュアル』(太田出版)からは、「自分が変われば生きづらい社会でも乗り切れる」というメッセージを受け取りました。本書でも身の回りの人間関係を見つめ、自分を変える必要性を書いていますが、同時に社会の制度や仕組みの大切さにも触れています。30年の間に、鶴見さん自身に変化があったのでしょうか。

 昔は、「鶴見は社会じゃなくて自分を変えろ派だよね」と言う人もいました。でも、自分では当時からけっこう社会派だったと思っています。自己啓発みたいにとにかく自分だけを徹底的に変えようとする人もいますが、自分はそれとは違って、必ず社会を射程に入れて考えているつもりです。「行政のこの制度を変えないといけない」と訴えるようなアプローチではないだけで、自分なりの微妙なバランス感覚があるんですね。

 心のあり方として「あきらめる」とか、見方を変えることって大きなものだと思うんですよ。それだけですごく楽になることがありますから。それを軽視するのはおかしいです。でも、自分が変わればいいとは言っても、自分が悪くないこともある。社会を射程に入れていないのも、面白くないと思っています。

 一人一人が変わっていけば、自然と社会も変わっていくじゃないですか。そういう順番が好きなのだと思います。

――鶴見さんは「不適応者の居場所」というサードプレイスづくりも行っていますね。こうしたつながりも、波及していくと社会が変わっていくという思いがあるのでしょうか。

 そうですね。個人の価値観を緩めることと、学校や会社、家庭とは別の居心地の良いサードプレイスを作っていくことは絶妙に重なっています。

 実際に人が集まる場所を作ってみると、つながるよろこびや、人から肯定される気持ちよさは大切だと感じます。誰かに頷きながら話を聞いてもらうのは、一人で頭で考えているのとはまったく違う体験です。話を聞いてもらうのって、それだけでかなり肯定されているんですよね。

 自分を否定してくる関係から離れて、肯定してくれるつながりを増やしていけたらいいと考えています。最近は人間関係がたくさんあったほうがいいか、それとも孤独なほうがいいかという二項対立で語られることがありますが、これはそもそも間違った考え。人間関係も孤独もいい面と悪い面があるとしか言いようがありません。自分を否定してくる関係と肯定してくれる関係を両極に置き、その真ん中にニュートラルな状態としての孤独がある考えるべきです。

 居場所づくりをやっていると、相手のことをニックネームしか知らないような距離のあるつながりでも、良い関係をつくれるんだとイメージできます。そうやって優しい居場所をあちこちに作っていけばいいのだと思っています。