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宇野碧さんが恋というものを知った映画「ビフォア・サンライズ」

パリ北駅©GettyImages

 台風が過ぎた9月の夜、一気に空気が冷たくなった。
 薄めの羽毛布団にくるまって眠り、肌寒さに目が覚めたとき、寝起きなのになぜか頭がすっきりとクリアだった。
 夜明け前だった。窓の外はまだ闇が消えはじめたばかりで、薄青かった。
 昨日書いていた途中だった、映画「バッファロー‘66」についてのエッセイを白紙にして、「ビフォア・サンライズ」のことを書くことにしようと決めた。

 決めたというか、寝ている間に私不在の会議で決まっていたような不思議な感覚だった。

 フランスの大学生セリーヌと、アメリカ人旅行者のジェシー。
 ユーロトレインの中で出会い、ウィーンで途中下車したふたりの共に過ごした14時間を描いたこの映画が生まれたのは1995年。
 私がビデオで観たのは、高校生の頃だった。

 映画の中で、セリーヌとジェシーはひたすらウィーンの街を歩き、会話をする。
 日が暮れて、夜が来て、夜が明けて、やがて予約した列車が来て別れる時が来るまで。

 映像で証明できるものって、何だろうか。
 サッカーゴールを決めた瞬間。容疑者が午後9時に日本橋のコンビニにいたこと。国会議員が議会中に居眠りしていたこと。
 すべて、目に見えることだ。見えないことは、映像に残らないと思うだろう。
 だけどこの映画は、「ふたりの人間の間で芽吹いた感情が、恋になった」という目に見えないことがくっきりと映っている。
 それを映しているつもりの映画ならたくさんあるけれど、実際に映っているものはそうそう、ない。
 まるで、種から芽が出て生長するさまを映した映像のように、明確にその過程を目撃したと思える、希有な映画なのだ。

 前になったり後ろになったり横並びになったりしながら歩く、ふたりの歩調のリズム。
 戯れやゲームとして、ふたりの間の距離を測るメジャーとして、時には核心に触れることを避けるものとして交わされるいくつもの会話。
 観覧車の中で、セリーヌに「キスしたいって言いたいの?」と聞かれたときの、ジェシーの声にならない「イエス」(これがものすごく、情けなくもチャーミング)。
 「お互いの写真を撮ろう」と見つめ合った時の、冒頭より格段に美しくなったセリーヌの表情。
 すべてのシーンに、その「目に見えないこと」が映っている。

 人は、あらかじめフィクションやメディアのなかで知っていたものを実際に目で見たり、体験したときに「ああ、これがあれか」とわかる。
 絵本やテレビで事前に得たイメージがなければ、たとえば生まれて初めて犬を見たとしてもそれは何なのか、どういう生き物なのかまるでわからないだろう。
 私にとって、恋というものを知ったのがこの映画だった。

 言葉によって概念をインプットするのではなく、見えないはずのものが映っている、それを目撃したという確信によって、恋と名付けられるもののイメージとリアルな手触りを自分の中に取り込んだのだ。

 取り込んだその手触りに照らし合わせて、その後19歳や21歳や29歳で経験した双方向的なもののことを、「これがあれだ」と認定した。
 その他の些末なものは、「あれに似ている/勘違いしそうだが違うもの」に分類した。

 恋というものの特徴は、その刹那性が、輝きとイコールであることだと思う。
 陳腐な例だけど、花火がずっと空にあるなら惹かれないし、桜が年中咲いているなら見にいこうと思わない。
 だから、最後に「1年後に同じ場所で会おう」と別れたセリーヌとジェシーが、再会しないんだろうな、と思わせるところまで「ビフォア・サンライズ」は完璧だった。

 ……だった、と10代の私は思っていた。
 まさか9年後にふたりが再会する続編「ビフォア・サンセット」が、そのまた9年後に結婚して年を重ねたふたりを描いた「ビフォア・ミッドナイト」が撮られるなんて予想できなかったし、主演の二人と同じように自分自身が「夜明けの後」を生きることも想像していなかった。

 外が明るくなって、朝が来た。
 夫と子供たちを見送った少し後に、私も家を出る。
 見上げた空は高く、うろこ雲がかかっていて、また秋が巡ってきたことを告げていた。