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柚木麻子さん初エッセイ集「とりあえずお湯わかせ」インタビュー フェミニズムは想像力、究極の部外者が声上げろ

コロナ禍は戦時中と似ている

――本書はリリースにあるとおり、まさに「ごはんと育児とフェミニズムをめぐる、4年間の記録」です。こうして時系列で読んでいくと、ごはんや育児の話に始まり、次第にフェミニズムや社会問題へと柚木さんの意識が外へと向かっていく様子が見て取れました。振り返ってみて、柚木さんの中でどのように意識の変化があったんでしょうか。

 エッセイ連載の依頼をいただいたのは妊娠中でした。「きょうの料理ビギナーズ」のテキストでの連載だったので、はじめての子育てで不安はあったものの、食や家事がテーマであれば続けられそうだし、読者も穏やかそうなイメージだったから、どんなことを書いても荒れることもなく安心だと思っていました。とはいえ、老舗料理番組のテキストでの連載なので、あまり変なことは書かないようにと、最初はおとなしくしていたんですね。でも、はじめての育児で保育園40個落ち、乳腺炎、母乳が出過ぎて貧血などなど、そんな余裕もなくなって。ようやく、いろいろと回り始めたところでコロナ禍になってしまい、気管支が弱いので主治医からは外出禁止を言い渡されて、家に閉じこもる日々が続くようになりました。今読むと大袈裟な感染対策をしていて、ちょっとした異常事態ですよね。

 でも、そうなると、社会と向き合わざるを得ないんです。保育園40個落ちやベビーカーを蹴られたこと、子連れで飛行機に乗ったら後ろから席を蹴られたことなど、「私が悪いのかな。え? 私じゃなくない?」というような、自分に起きた理不尽な出来事がどんどん噴出してきました。自責の念から、だんだんと社会に怒りが向かい始める。もっと早くから問題意識がある人間だったら、多分、このエッセイ集は書けてないんですよね。

――それはどういうことですか?

 私はその時々で「良し」とされることを、とにかく愚直に試してしまう人間なんです。このエッセイ集でも書いたように、コロナ禍で余った牛乳の大量消費を呼びかけられたら、牛乳を2時間煮詰めて平安時代の珍味「蘇(そ)」を作ってみたり、ステイホームを何とか楽しもうと「おうち夏祭り」や「おうちディズニー」などを開いてみたり。でも、よく考えたら、余った牛乳の救済措置も夏祭りやディズニーに行けるような態勢に戻すことも政府がやるべきことなんですよね。

――すでに問題意識がある人だったら、問題の根本に目を向けて、「蘇」も作らないし、「おうち夏祭り」も「おうちディズニー」もやらないということですか。

 そうなんですよ。って、「蘇」と掛けてギャグみたいになっちゃったのも、ちょっと癪なんですけど。でも「蘇」は美味しかったです。

――そうなんですか。……あ(笑)。

 巻き込んだ! そうなんですよー(笑)。

 コロナ禍は戦時中と似ているなと感じました。『らんたん』執筆のために昔の雑誌を見る機会があったのですが、戦争が始まると「おうちにあるもので美味しいものを作ろう」「防空壕の中で楽しく過ごすアイデア」といった記事が雑誌に掲載されているんです。でも、それらを実践することって、結果として戦争協力させられていることで、歴史上、繰り返しあるんですよね。「こんなに個人が頑張って賢くならなきゃ立ち行かない国ってどうなの?」と疑問に思うようになりました。「おうち夏祭り」とか、ちょっと考えればそんなに真剣にやるものじゃないのに、私は真剣にやっては後悔をして地団駄を踏むということを繰り返しているんです。これからも、その繰り返しなんだろうなとは思うんですが、その度に自虐ではなく後悔することも大事で、そうやってちょっとずつ成長しているんだと思います。

 フェミニズムやポリコレを意識している人で、「蘇」を作った人も「おうち夏祭り」を決行した人も日本中で私一人なんじゃないかな。そういう意味でも、このエッセイ集は貴重なスタンスの本だと思います。

――でも、そういうギャップがあるのはいいですよね。「蘇」を作った柚木さんを入り口にすれば、フェミニズムやポリコレもとっつきやすくなる気がします。どうしても過激な発言をする人たちの声が大きくなってしまって、ネガティブなイメージを持つ人もいるので。

 人が何か発言するからには、できるだけポジティブなイメージを与えなきゃいけないという風潮も、分断のあらわれですよね。私はエンタメ作家になる前から、生まれつき、なにごとも面白がらせたい欲が強い性分なだけ。本来、フェミニズムは真面目にまっこうからユーモア抜きで語っても、社会にごく当たり前にその意識がインストールされていさえいればなんの軋轢もないというだけの話。100年後に見たら、みんな同じチームだと思うんです。

 『らんたん』執筆中に、明治時代のフェミニズムについて調べたんですけど、津田梅子ら教育者のフェミニズム、平塚らいてうら「青鞜」のフェミニズム、山川菊栄みたいな貧困層にもアクセスしたストリートのフェミニズムって、全く違うように見えますよね。実際に仲が悪い人たちもいたけど、100年後の私から見ると、全員、女性が声を発していい空気を作った人たち。「アベンジャーズ」みたいな感じですよ。だから、今のフェミニズムにもいろいろな考え方があるけど、100年後から見たら、ジェンダーギャップ最悪の日本で女性の道を切り開こうとそれぞれ一生懸命に頑張っている人たちで、仲間なんだと思います。

ジェンダー観の過渡期、小説の読まれ方も変わってきた

――ここ数年で、柚木さんの小説も読まれ方が変わってきていると感じられているそうですね。「女同士のドロドロ」といったネガティブなものから、「シスターフッド」「エンパワメント」とポジティブに読まれるようになった、と。

 今でも覚えているのが、デビュー作(『終点のあの子』)の帯です。「女子高生の友情は、すぐに敵意に変わる」っていうコピーがついていて、ちょっと疑問に思いながらも編集者さんも売ろうとしてくれているし、そうは言っても敵意を抱いてしまう展開だし、納得しようとしたんですよ。そういうことが度々ありました。女同士の友情って、なかなか伝わりにくいのかなと思っていたんですけど、最近はシスターフッドやフェミニズムといったポジティブな文脈で受け入れられるようになったんです。

 5年前に、若い女性のライターさんから「柚木さんがシスターフッドを描き続ける理由を教えてください」と聞かれたのが最初だったのをよく覚えています。当時、「シスターフッド」という言葉すら知らなくて、ネットで検索してみたら、母校である恵泉女学園の聖書を担当されていた一色義子先生の名前が出てきてびっくりしました。シスターフッドについての授業があったことはすっかり忘れてしまっていたけれども、今思えばフェミニズムはわりと早いうちにインストールされていたのかもしれないですね。すごく恵まれた環境だったんだなと最近になって気づいて、また後悔しています。

――今はまさにジェンダー観がアップデートされていく過渡期ですよね。私は柚木さんとほぼ同世代で、自分の子ども時代や思春期に好きだったコンテンツの中には、今のジェンダー観ではアウトなものもあります。でも、好きだったものを全否定はしたくなくて、複雑な気持ちになることってないですか。私のジェンダー観はアップデートできてないんだろうかとも思ってしまったり……。

 そういうときは、世代を超えておしゃべりするといいですよ。年齢がひと回り、ふた回り以上離れた人と話すと、自分の中の時間感覚のねじれが整う瞬間がわりとあるんです。子ども時代や思春期に好きだったものって強く記憶に残っているから、まるで昨日のことのように思えますよね。でも、改めて振り返ってみたり、それを知らない人に客観的に話したりすると、ちゃんと「時間」という1本の流れの中で位置付けができる。そうやって自分の中で1本の線にならないと、昨日のことのように思えて傷ついちゃうんだと思います。

 例えば、私もアニメの「エスパー魔美」がすごく好きで、仁丹を自分にぶつけてテレポーテーションできるか試していたくらい、ハマっていたんですね。主人公の魔美は14歳の中学生で画家の父親のヌードモデルとしてお小遣い稼ぎをしているって話を若者たちにすると、「そんなアニメあるわけないでしょ。しかも藤子・F・不二雄で」って言われて、テレポーテーションを実験していた自分は「昨日」じゃなかったと認識できるんです。だから、自分の中で年表みたいなものを持っていると、自分を責めなくなるんじゃないですかね。自分が何歳のときで、どういう状況だったのか。9歳のときに「エスパー魔美」を見たら、そりゃハマりますよね。

――もう随分前のことなんだと認識するのが大事なんですね。

 これは「なんであのとき、声を上げられなかったのか」「なんであの状況を、変だと思えなかったのか」と今でも自分を責めている全ての人にも言いたいです。自分がその時、今より未熟で、どういう状況だったかを改めて考えてみて、自分を責めないでほしい。そして、まわりの人間もその人の立場を想像することが大事なんじゃないかと思います。フェミニズムって、究極は想像力ですよね。

――今年の4月に柚木さんが山内マリコさんと連名で出された映画業界の性暴力・性加害の撲滅を求めるステートメントも想像力の賜物ですよね。業界外から声を上げるという。 

 あれは、私や山内さん、賛同してくれた女性作家たちが映画業界の部外者だったからできたことなんですよね。しかも、賛同者の中に、映像化2強の湊かなえさんと三浦しをんさんのお二人が風神雷神のごとく名を連ねてくださったのも大きかったです。とても好意的に報道されました。当事者が声を上げたら、きっと散々叩かれることになったと思います。

 でも、究極の部外者って政治家だと思うんです。権威ある第三者。社会構造から生まれる差別や格差、ハラスメントは、政治が何とかしてくれない限り、当事者間で争ったり、個人の頑張りで何とかしたりするしかありません。怒りを向けるべきは何か。若手ノンフィクションライターのヒオカさんが言っていたとおり、「個人ではなく政治」なんですよね。そこをもっとみんなが考えたほうがいいんじゃないかなと思います。

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