ねむれねむれと声をかけるまでもなく本たちはぐっすり眠っている。果実のように、小動物のように。群れとしてぼくの部屋で眠っている。手を伸ばせば届く。それを当たり前の状況として半世紀をすごしてきた。
手に取りどこからでも読みはじめたとき本は目を覚ます。たちまち不思議な装置となって遠い時空の映像や音を体験させてくれる。そこからが本とのほんとうのつきあい。一冊一冊が途方もない広大さを閉じこめていて、ぼくらは本に乗り一瞬で意識の旅をはじめる。長い年月積まれたままそこで眠る本は、そんな旅への確実な切符だ。
たとえばダンテ『神曲』(1970~72年刊、三浦逸雄訳、角川ソフィア文庫・全3巻・各968円)。古典中の古典。古典というのはおもしろいもので、読んだことがなくても何かを知っている。有名人のようなものか。顔つき、衣装、エピソード、作品のいろいろなかけらに、あちこちで出会ってきた。つまり断片的には読んだことがある。でも通読したことがなかった。この秋になってから読みはじめ、3部構成のうちの「地獄篇(へん)」をあっというまに読んでしまった。
むちゃくちゃにおもしろい。同時に改めて訳文との相性を思った。『神曲』は何種類かの邦訳がすぐ手に入る。なのに過去にはなぜかしっくりこず、すぐページを閉ざしてしまうことばかりだった。それが先日、書店でふと手にした三浦逸雄訳にビビビと感じるものがあった。読みやすく、ユーモアがあり、詩情がある。これはいいぞと読んでいくうちに次の文に出会った。
「砂原の上にはいちめんに、ふくらんで/火のかたまりが降っていたが、ゆったり落ちてくるさまは、/風のない日に降るアルプスの雪のようだった」。強烈なイメージ、しびれる表現だ。こういう言葉ならいくらでも読みたい。結局、そんなセンテンスが自分にとってのその本への臨時の入口(いりぐち)になる。「煉獄(れんごく)篇」「天国篇」と読みつづけること、決定。
続くフレイザー『金枝篇』(2003年刊、吉川信訳、ちくま学芸文庫・全2巻・各1650円)は文献の博捜による人類学の古典。現地調査に立つ現代人類学からは一笑に付されるかもしれないが、比類ない物語の宝庫だ。古今東西の伝説や習俗を俎上(そじょう)に載せ、みごとな手捌(さば)きで並べてくれる。どのページを開いてもいいが、たとえば「ダホメーの王の食事を目にすることは死に値する罪である。きわめて特殊な機会に王が公衆の面前で何かを飲むという場合、王はカーテンの後ろに隠れるか、頭の周りにハンカチーフを巻く。そしてすべての者は地にひれ伏し顔を上げてはならない」といった一節を読むと、その映画的鮮やかさに息が止まりそうになる。
『金枝篇』がヨーロッパ的思考の集大成だとしたら、ヨーロッパが世界にもたらした暗黒の災厄が新大陸の征服だった。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(原著執筆1542年)で知られるラス・カサスの畢生(ひっせい)の大作が『インディアス史』(09年刊、長南実訳、石原保徳編、品切れ)だ。岩波文庫で全7巻。骨は折れるがこればかりはいつか必ず通読したい。
野望が生む残忍、貪欲(どんよく)が生む狂気。グローバル世界は誰のどんな暴力により成立したのか。「新世界」の征服という途方もない事業が詳細に語られる。島の首長に対してスペイン人が犬をけしかけ、犬が首長の腹を食い破りはらわたをひきずりだす場面などは、現場を見たこともないのに記憶の中で永遠にリプレイされる。
こうしてみると、世界について知りたいと思いながら知ることができないまま現在に至った知識のそれぞれが、本というかたちをとって眠っているわけだ。床に積み上げた文庫本の山は、そのまま時空を超えてあっちにもこっちにも通じている。積読(つんどく)の果てに覚醒あり。眠っている暇はない。=朝日新聞2022年11月19日掲載