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思いに触れ、心に通う風 稲泉連

<イラスト・ゆりゆ>

 昨年7月、『日本国語大辞典』の2度目の改訂を行うことを、版元である小学館が発表した。“日国”と呼ばれて親しまれるこの辞典は、約50万語を収録し、3万点に及ぶ文献から100万の用例が採集された日本最大の国語辞典。第二版の出版が2000年なので、実に四半世紀ぶりに大改訂が始まるというわけだ。改訂に費やされる時間は8年――そんな一大事業に携わる関係者に話を聞く機会があり、積読(つんどく)になっていた松井栄一『出逢(であ)った日本語・50万語 辞書作り三代の軌跡』(ちくま文庫・品切れ)を読んだ。松井栄一は“日国”の歴史におけるキーパーソンで、祖父・簡治が自費を投じて編纂(へんさん)した『大日本国語辞典』を土台に、戦後になって小学館とともに『日本国語大辞典』を作り上げた人だ。

 本書でも繰り返し強調されるように、“日国”の最大の特徴は「用例主義」にある。『古事記』や『日本書紀』から現代文学に至る史料を参照し、実際に一つの言葉がどう使われてきたか、どのような意味の変遷を辿(たど)ってきたかを実例を以(もっ)て示す。そのためには膨大な用例を採集してカード化し、それぞれの取捨選択を検討するという気の遠くなるような作業が必要だった。

 松井簡治から早逝した息子の驥(き)、そして、孫の栄一へ。果てしない言葉の海を進み、日本語の地図をいかにして編纂したかを綴(つづ)る本書を読んでいると、このような途方もない仕事があるのだ、と尊敬の念を抱かずにはいられなかった。

 次に今年の2月、優れた探検家や冒険家に与えられる「植村直己冒険賞」に、洞窟探検家の吉田勝次氏が選ばれた。ラオス北部の未踏査だった巨大洞窟での探検が高く評価されたという。

 このニュースを機に手に取ったのが吉田氏の著書『洞窟ばか すきあらば、前人未踏の洞窟探検』(扶桑社新書・品切れ、電子書籍あり)。20代から洞窟探検にのめり込み、世界中の洞窟を探査してきた自身の歩みを記すノンフィクションで、ラオスでの探検にもふれた電子版を読むことにした。

 落石の危険、道に迷う恐怖、顔すれすれまで迫る水、ときに挟まって身動きがとれなくなるような路(みち)……。「見たことのないものを見たい」という欲求に突き動かされ、数多(あまた)の困難を乗り越えていく様子に圧倒される。度肝を抜かれる洞窟探査の場面を次々と読むうち、未知を既知へと変えようとする人間の好奇心、そこから湧き出る根源的な力のようなものに触れている思いがした。

 吉田氏は書いている。洞窟探検とは行為そのものに意味を求める「冒険」ではなく、あくまでも古気候学や地質学、生物学、考古学といった多くの要素が絡み合う「探検」なのだ、と。洞窟の奥深くに足を踏み入れ、誰も見たことのない光景を記録し、世界と共有する。洞窟という「未知」の世界に魅了され、探検に人生を捧げてきた情熱が、はち切れんばかりに詰まっている一冊だった。

 最後に、いつも積読中の本のように手元に置き、今回、数年ぶりに再読したのが宮脇俊三『最長片道切符の旅』(新潮文庫・880円)。中学生の時に鉄道ファンの友達に勧められて以来、何度も読み返してきた大好きな作品だ。

 同じ駅を2度通らず、一筆書きで最も長い距離を移動する最長片道切符。会社を退職した著者は昭和53(1978)年の秋、北海道の広尾駅から鹿児島県の枕崎駅まで、1万3319・4キロの経路を通る旅に出た。

 鉄路がつなぐ自然と町の風景、土地の人たちとの会話や沿線の乗客たちの姿――。次々と後景に退いていく描写を読んでいると、日本とはなんと多様なのだろう、と思う。

 刊行から45年以上が経ち、本書に描かれた車窓の風景は貴重な記録となった。何より今なお色褪(いろあ)せない普遍的な紀行文学としての魅力を、あらためて堪能する。枕崎駅で最後の印を切符に捺(お)してもらう場面を読み、静かな気持ちで本を閉じた。=朝日新聞2025年3月22日掲載

◇「つんどく本を開く」は今回で終わります。