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未来作思い浮かべ飛ぶ心 宮城聰

 <イラスト・ゆりゆ>

 小学生の頃、よく母親からこんなことを聞かされました。「人間は生まれる環境や体格は不平等だが、時間だけは平等に与えられている」――親の言うことの中で、これだけは「もっともだ」と思えたものです。

 で僕のアタマにはいつの間にか「時間は有効に使え」という標語が張り付いて、おとなになってからも、たえず「今この時間は何のための時間?」とチェックするようになりました。つまり、「何かの目的に紐(ひも)づいている時間」しか認められなくなったのですね。

 読書についても同じで、「この本を読むことはなんのためか」を自分で認定できる読書しか、できなくなりました。読書自体が目的の、つまり読書するという楽しみのための読書、は残念ながら僕にはありません。

 じゃあ、なんで「つんどく本」が、僕の机の右側にうずたかく積まれているのか?

 演劇を演出するのが僕の仕事ですが、いちばん楽しい時間は、「次の次」または「次の次の次」の作品についてあれこれ考えるときです。「次」の作品についてははなはだ具体的な問題が目の前にあって、あまり「イマジネーション」の出番がありません。基本、職人技の独壇場です。でもその次、あるいはさらにその次の作品を思い浮かべている時間は、現実の制約を受けずに、考えがあっちこっちに飛び回ります。飛ぶ、というか、芋ヅル式に、でもそのツルはすごーく細くていい、という感じです。で、そういう時間には「あ、この本、ちょっと関係あるんじゃないかな」と思った書物を次々とネット購入してしまいます。

 でもそれが届いた頃には、すでにそういう幸せな時間は過ぎ去っていて、目の前の作品のために職人としてシコシコ働いているんですね。そのためそれらの書物はつんどかれることになります。

 ただ、そういう、ごくうっすらとしか仕事に関係しない書物が、ふと開かれるめぐりあわせになることもあります。馬渕明子『舞台の上のジャポニスム 演じられた幻想の〈日本女性〉』(NHK出版・品切れ)もそのひとつでした。僕は来年2月にイギリスで葛飾北斎の人生を描いた新作オペラ(作曲はいま大注目の藤倉大さん)を演出するのですが、このあいだその舞台衣裳(いしょう)についての会議をおこなったときにイギリス側から「キモノは絶対ダメ」と釘を刺されて、面食らいました。北斎という実在の人物を描くのにキモノがNGとは? で、ふと机の右の書物タワーの中の『舞台の上のジャポニスム』を引っ張り出して読んでみたら、なるほど! イギリスやフランスで、いわゆるオリエンタリズムの象徴が長らくキモノであった、そして今そのオリエンタリズムを彼らがなんとかして克服しようとしている、ということなんですね。

 オリエンタリズムの目で日本を見ていたのは基本的にオトコたちで、それゆえ日本の女性は大人気、川上貞奴はパリで大人気。じゃあ明治時代、当の日本の芝居の世界で女性はどういうポジションだったのか? 色物的な「女芝居」くらいしかなかったのか、と思ったら、いや違うんですね! 金子ユミ『女形と針子』(小学館時代小説文庫・803円)を読んでみたら、この本、明治の歌舞伎の世界をしっかり調べて書かれたフィクションで、いわゆる「大歌舞伎」の舞台に立った女役者がいたことをこの本をきっかけに知りました。歌舞伎は男だけの世界、それが伝統というもの、というイメージは、実は意外に新しく、意図的につくられたものだと気づきます。

 そうそう、つんどく本タワーの中から何度も机上に登場したのが戸田山和久『教養の書』(筑摩書房・1980円)です。学生向けのリベラルアーツの教科書ですね。僕の属する劇場では高校生を集めた演劇塾を開講しているのですが、その科目の一つが『教養の書』の輪読なんです。僕はたまにリモートでその授業に加わり、フランシス・ベーコンの思想について知ったりしています。このときばかりは、ちゃっかり読書そのものを楽しんでいるのでした。=朝日新聞2025年02月22日掲載