今週は、千年後の世界をあれこれ思い描いている。「100年に一度の猛暑/豪雨」「千年に一度の災害」などと言われるので、大きく切りのよい数字が頭に浮かんでくる。
じつは先々週、私は東京の本の町・神保町で、明治の思想と文学を映像と語りと演奏でひもとくライブステージを演出した。明治維新、戊辰・西南戦争、藩閥政治、日清・日露戦争とつづいた百数十年前の話である。
それこそ100年に一度の酷暑の夏、脚本を書きながら、カギは「ソサエチー」だな、と私は考えた。江戸時代はむろん、明治になっても臣民と国民ばかりの日本には、平等な個々人が責任と権利を持つ「社会」がなかったから、先人らはこの語の翻訳に苦労した。
『西国立志編』の中村正直は「人倫交際」、『学問のすゝめ』で福沢諭吉は「人間交際」と訳した。「社会」という訳語は啓蒙(けいもう)哲学者の西周(にしあまね)、東京日日新聞の福地桜痴(おうち)らが考案したが、言葉ができても社会は生まれない。森鷗外、夏目漱石、樋口一葉など明治の作家たちは、この未成の社会と昔ながらの世間のあいだで煩悶(はんもん)したのではなかったか。
明治時代に不吉な幕を引いたのは大逆事件だった。幸徳秋水ら12人の社会主義・無政府主義者を極刑に処して以降、書店の棚からは「社会」の文字がついた書物が消え、ハチやアリの生態を記した雑誌「昆虫社会」の発行者まで警察に事情聴取された(と、東京朝日新聞の校正係だった若き日の歌人、石川啄木が書き残している)。
こうした強権発動に対する文学の非力を悟った永井荷風は、戯作(げさく)者へと身をやつした。思想史家の菊谷和宏はこの経緯に分け入って、「日本には『国家』はあるが、『社会』がない」と断じた。つんどくだった近著『「社会」の底には何があるか』(講談社選書メチエ・1760円)は一人ひとりの固有の生を社会に位置づけた労作だ(同書に著者が深刻ながんの闘病中とあって、思わず私は背筋を伸ばした)。
思えばヨーロッパで「暗黒の中世」から近代社会が成立するまでに500年はかかっている。100年程度で世の中が変わると思うのはせっかち、というものかもしれない。
夜空を見上げると、月が出ている。千年前の平安時代、『枕草子』の清少納言は日々の雑事を月の静寂に慰められたが、はて、紫式部はどうだったか。つんどくその2、角田光代訳『源氏物語』全8巻(河出文庫・各880円)を開くと、さっそく月夜、帝(みかど)が亡くなった桐壺を思って、うち沈んでいる。ものを思い、男女がめぐり合うには月や月明かりが欠かせない。
千年後の月面では宇宙放射線をシールドし、酸素を充塡(じゅうてん)したドーム内で人類の一部が働いているだろう。通訳AIのおかげで、外国人同士でも意思疎通はスムーズだ。とはいえ大気はなく、重力もちがう。食糧生産もままならないから暮らしやすくはないはずだ。
宇宙飛行士の向井千秋、東京理科大学スペース・コロニー研究センター著『スペース・コロニー 宇宙で暮らす方法』(講談社ブルーバックス・1100円)を読んで、膝(ひざ)をたたいた。われわれは宇宙で「さまざまな社会の要素を、まったくのゼロから作り上げる自由を与えられる」。そうか、地上で社会をつくれなくても宇宙ならできる、という考え方も悪くない。
千年後の地球では石油も石炭もウランも枯渇しているだろう。エネルギーを制する者が権力を握る、という歴史の定理の舞台は核融合発電所に移った。国家も千年くらいでは消滅しそうもないから、各国の権力者たちはあちこちで起きる“核発”事故後の荒廃から目をそむけ、復興支援、経済再生を叫んでいるにちがいない。うーん、けっこう寒々しい。
たよりになるのはやっぱり宗教か。聖書、コーラン、あまりに現地適応力に富んでいるせいで共通聖典のない仏教なら中村元訳『ブッダのことば』あたり。来週は、つんどく4、5、6をまとめて読んで、少し心を落ち着かせよう。=朝日新聞2024年11月23日掲載