1. HOME
  2. コラム
  3. 売れてる本
  4. 「日本3百名山ひと筆書き 田中陽希日記」 その山だけの息吹を伝える

「日本3百名山ひと筆書き 田中陽希日記」 その山だけの息吹を伝える

 アドベンチャーレーサー田中陽希さんが今までの活動の総決算として日本3百名山ひと筆書きに挑んだ。3百名山とは日本百名山に日本山岳会が選定した山などをくわえたもので、全行程を歩いて登り切った。
 人力といっても半端な人力ではない。自動車免許証の更新のために岐阜から自宅のある神奈川まで歩く。東京に用事があるときも電車は使わず徒歩で往復する。高層ビルでもエレベーターに乗らない。つまり旅をしていた4年の間、彼は生活の移動でさえ一切の動力にたよらず人力を貫いているのだ。常識外れとはこのことだろう。

 とはいえ文章から苦役のテイストは一切漂わない。すべての移動や登山を楽しんでいる様子が潑剌(はつらつ)とした文体に漲(みなぎ)っている。素晴らしいのは、山を丁寧に登るという初心を貫徹していることだ。目指す山には大きくて立派な山もあれば、小さくて目立たない山もある。だがどんなに地味な山でも、彼はただ通過するということをしない。それぞれの魅力を引き出し、これを全身で受け止め、堪能し、その山だけにしかない息吹を感じて伝える。彼の登山を通じて、すべての山がひとしい存在として立ちあらわれる。全部の山が輝き、生き生きしている。このように書けるのは、すごいことだと思う。

 道々の小さな花や川のせせらぎ、流れる雲、行きかう人の声を丹念に拾うのは、通り過ぎてゆく瞬間に一番大事なものがあるとの信念があるからだ。「動力により時間を短縮させ、効率よく社会が動いている一方で、見落とされていること、見捨ててきたことも多くあるのではないか」。歩いて山を巡る旅はそれらを拾い集めることだ。「一つとして欠けてはならないピースを確実に積み上げてきたからこそ、最後のピースを得られたのだ」。言葉が胸にしみる。
 写真図版にはトレードマークである満面の笑みが満載だが、これほど人柄と文章が一致した本も珍しいのではないか。“笑顔の超人”に感服した。=朝日新聞2022年12月10日掲載

    ◇

 平凡社・2200円=3刷1万5千部。8月刊。旅の間に書き、共同通信から配信した記事を編集。BSでも放送され、版元によると著者の人柄に引かれて購入する人が多いという。