デビュー直後から藤沢周平への私淑を公言していた。くわえて昨年、山本周五郎賞をいただき、時代小説での受賞が十六年ぶりだったということもあって、両先達にご縁ができたような心地を覚えている。
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藤沢作品と出会ったのは中学生のときである。近年リメイク版も制作されたが、NHKの時代劇「立花登 青春手控え」(一九八二年)に惹(ひ)かれ、原作の「獄医立花登手控え」シリーズを手に取った。それからしばらくして、「週刊朝日」に連載された『風の果て』を読んだことで、この作家への傾倒が決定的になる。
下級武士から筆頭家老にまで成り上がる男を描いた物語だが、彼は出世してゆく過程で、古い友人などさまざまなものを失ってゆく。それでも前へ進んでいく姿勢に深く共感したのだった。私という人間の根底にある、成長小説(ビルドゥングス・ロマン)への情熱と響き合うところがあったのだろう。残念ながら生前にはお会いする機会を得なかったが、縁あってご息女である遠藤展子夫妻や、山形県鶴岡市の藤沢周平記念館とも交流が生まれた。
それほど私淑していながら、当初、私は時代小説を書こうとしなかった。このジャンルには、書き手の人生経験や年輪といったものが不可欠だという考えが漠然とあり、自分にはそれが足りないと思っていたからである。が、デビューまで時間がかかったこともあり、知らぬ間にその年輪なるものを重ねていたらしい。歴史小説でスタートしたあと、担当編集者から「文章のたたずまいや感情の掬(すく)い取り方が時代小説に向いていると思います。ぜひ書いてください」と要請を受けた。これに応えて執筆したのが、望外の反響をいただいた『高瀬庄左衛門御留書』である。
そうした経緯があるから、インタビューなどで藤沢への思いを聞かれることもままある。なかには拙作から藤沢的雰囲気を感じる方もいるらしい。それは読者ひとりひとりに判断していただくしかないが、私個人の実感としては、さほどでもないと思っている。似ていると見えるのは、下級武士や庶民の哀歓といった道具立ての部分であり、人間がひとりひとり異なる以上、いかに深甚な敬意を抱いていようと、作家や作品もおのずから別ものと考えているからだ。
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さて、もうひとりの先達・山本周五郎だが、私がその作品に接したのは藤沢よりはやく、小学生のときである。同居していた叔父の書棚にひと通り著作が揃(そろ)っており、よく分かりもせぬまま目を通していた。
周五郎といえば『樅(もみ)ノ木は残った』や『赤ひげ診療譚(たん)』のように重厚な作品を想起する方が多いが、私が惹かれたのは滑稽小説と呼ばれる物語群だった。藩内でのどんな失敗も自分のせいだと言い張る武士が主人公の「わたくしです物語」や、あまりにひととテンポがずれているため、つねにひと足どころか百足も遅れてしまう若者を描く「百足ちがい」といった短編である。周五郎には気むずかしげなイメージが強いが、こうした面もあることはもっと知られていい。山本周五郎賞の受賞前後、インタビューを受ける機会が多かったから、ちょっとした助太刀のつもりで、よくこの話をした。
私自身はどちらかというとシリアスな筆致の作家だと思うが、たまたま最近、滑稽味のつよい短編をものした。「錆(さ)び刀」(「小説新潮」一月号)というのが、それである。藤沢の場合、周五郎ほど正面切った滑稽小説を手がけてはいないが、とくに中期以降の作品で随所にユーモアの味を感じる。まるで意図せぬことではあるものの、両先達からそうした面も受け継げていたらうれしい。
その藤沢も、デビュー後しばらくは山本周五郎にくらべられて困惑したらしい。こうなると、だれもが通る道かと覚悟するほかないが、ちょうど本紙の記者にこのふたりの否みがたい共通点を教えられた。ともに今年の干支(えと)、うさぎ年の生まれだという。このエッセイが新年の紙面に載っている由縁でもあるのだが、これをどう解釈したものか、酉(とり)年の私としては大いに悩んでいるところである。=朝日新聞2023年1月4日掲載
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すなはら・こうたろう 1969年生まれ。出版社勤務などを経て、2016年に作家デビュー。『黛家(まゆずみけ)の兄弟』で山本周五郎賞。