1. HOME
  2. コラム
  3. 信と疑のあいだ コロナ後の世界を探る
  4. 20歳、気づけなかった未熟さ 青来有一

20歳、気づけなかった未熟さ 青来有一

イラスト・竹田明日香

 成人の日の行事が今年は無事に開催されました。昨年、民法が改正されて法的には18歳で成人となりますが、新成人の式典は従来と同じく対象は20歳にした地域が多かったようです。

 昭和の時代の自分自身の成人の日を思い出すと、今もちょっと恥ずかしくなります。なにをひねくれていたのか、式典に行かなかったのです。同じ格好でぞろぞろするのに微妙な違和感というか、なにか照れがあって、親がスーツを買ってくれるという話も断りました。親にはなにを考えているのか、わかりにくい子どもだったかもしれません。

     *

 高野悦子の日記「二十歳の原点」を読んだことを覚えています。「バリケードの腹の中」で「生きている」と学生が実感するといった政治の季節は、ひと昔前にとうに過ぎ去っていたのに「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」ということばに響くものを感じていました。時代遅れの新成人だったのでしょう。

 ただ、この日記の終わりにある詩、「旅に出よう テントとシュラフの入ったザックをしょい」で始まり、原始林の中の湖で眠りつくという詩の、ひりひりとした孤独と深い充足感は、時代を超えて読者の胸をうつのではないかとも思います。

 「式典ぐらい行けばよかったのに」という母のぼやきを聞き流し、町内会長さんが届けてくれた紅白饅頭を食べ、夕方、家庭教師のアルバイトに行ったぐらいで、その一日は淡々と過ごしました。

 家庭教師先の家は街が一望できる高台の住宅団地にあり、9時前に終わり市街地へ下りるバスに乗りました。長崎の路線バスは狭くて曲がりくねった斜面地の道路を家の軒先をかすめるようにして走ります。遅い時間で乗客も少なく、前方の席に座るとフロントガラスいっぱいにネオンサインがひろがり、ハンドルを切るたびに光の海が左右にゆれて夜間飛行のようです。星空は冷たく澄み、街の灯は胸に沁みるほど美しく、「ここで生まれてよかったなあ」と思ったのが、成人の日の心に残る記憶になりました。

     *

 それから十四、五年が過ぎ、教育委員会に勤務していた当時、成人の日の式典に動員されたことがありました。会場の誘導や外回りの掃除など忙しくはなかったのですが、式典会場に入らない新成人も多く、周辺にゴミも散らばりうんざりしていました。ビールの空き缶を拾ったら煙草の吸殻がつめこまれていて、黒いタール混じりの液体でワイシャツの白い袖が汚れて洗っても消えません。式典など参列しなくても別によかったともそのときには考えました。

 会場をのぞくとステージの光が届く前の席は埋まり、二階席は空いて、後ろの席に離れて数人の人影があります。晴れ着姿の新成人らしい女性を囲み、両親や祖父母と思われる人々が後部の席に静かに座っています。家族がなぜいっしょなのかと思ってながめていてはっとしました。新成人の女性はちょっと小柄でふっくらした丸顔で、まぶたがいくらかふくらみ、ニコニコしています。柔らかなその表情はたぶんダウン症です。

 私は養護学校(今の「特別支援学校」です)で教育実習の経験があり、知的ハンディのある子どもを育てる家族の愛情と不安、その子が与えてくれる喜びも聞いたことがありました。新生児のときから人一倍心配しながら育てた子どもが成人を迎えるのです。本人だけでなくまわりの喜びも大きく、成人の日は家族みんなの祝福の日だったのでしょう。後列に遠慮がちにひっそりと座るその家族の影をながめ、20歳の時の自分の未熟さを知ることになりました。

 ひとりで大人になる人間はいません、未熟でも大人になれたのは孤独ではなかったからです……、あたりまえのことがようやくわかったのです。あの日が自分のほんとうの成人の日だったのかもしれません。=朝日新聞2023年1月16日掲載