0から1を生みだす場所から本に
――10年ぶりのエッセイ集『月と散文』(KADOKAWA)は、2021年8月22日に又吉さん自らが立ち上げて執筆活動を行っているオフィシャルコミュニティ「月と散文」からの作品集でもありますが、一冊の本として発売した経緯から教えてください。
エッセイ集をいつか作りたいと思っていたんですが、まさか前作から10年も経っていたとは気づきませんでした。僕は本が好きなので、オフィシャルコミュニティを始める時から、ここで発表した原稿を本という形にしたいと考えていて。週に3回、原稿を発表しているなかから、エッセイ集を作りました。
――そもそもオフィシャルコミュニティ「月と散文」を立ち上げた理由はなんですか。
0から1を生みだす場所が必要だったからです。我々芸人で言うと、まず小さい劇場で自分の新ネタを披露して、その反応を見つつネタを直していくんですが、そこからより大きい劇場やテレビ出演の際にネタを持っていくことがあって。そんな何かを生みだす劇場でずっとライブをやっていたんですが、コロナ禍でできなくなって、表現をやる場を自分で持っておきたいと思ったことが理由ですね。
例えば『火花』という小説を書いた時は、文芸誌で執筆することが芸人にとっての新ネタをおろす場所、劇場のような場所なのかと思っていたんですが、文芸誌に発表した段階で予想以上にたくさんの人に読まれていて。僕の一作目の小説に関して言うと、文芸誌で新作をおろしていくことが、小さい劇場のような役割をあまり果たしていないと感じて、もっとクローズドな空間で作品を発表していきたいと思っていました。
――オフィシャルコミュニティ「月と散文」は、「書き物」「自由律」「実験」と三つのカテゴリーの新作原稿を投稿する有料サイトですが、なぜこの三つに絞ったのですか。
ひとりで書くので無理のない範囲ということと、有料なのでできるだけ充実させたいということで、三つにしました。「書き物」はいわゆる2千文字ぐらいの散文、「自由律」は十年以上やっている自由律俳句、「実験」は思いついたことを提出する場です。自由律俳句は、作ろうとすると普段から細かいことによく気づくようになって、そこで作ったものからエッセイを書いていくこともあるので、すごくいいんですよね。文筆業だけではなく、コントや漫才を作る時にも役に立つので、ちょっと大変やけど毎週作ろうと。実験は、コロナ禍になるまではライブでやっていた自分で考えたコーナーなどのお笑いの企画を提出できる場として置いています。
――オフィシャルコミュニティ「月と散文」は“満月の日”に開設されていますし、本では「満月」「二日月」と章立てされてもいますが“月”は特別なものなのでしょうか。
月はカレンダーにもなりますし、満ち欠けがあって、星の中で一つだけめっちゃでかいですよね。夜空を見上げた時に感じることは日々違うんですが、毎日のように何かを作る時も感じ方が違うところが響き合っているように思えて。僕の好きな「月」と「散文」を組み合わせてサイト名をつけて、本も同じにしました。月はみんなのものですし、詩人なんてテーマにするのは「雪月花」ですし、普遍的なものだと思っています。
本は自分と世間の距離感を測る指標
――『東京百景』を発売してから10年の間、2015年に小説『火花』で芥川賞を受賞されて執筆業もより多忙となり、「ピース」の相方・綾部祐二さんは単身渡米されるなど大きな節目も。この間の心境の変化もエッセイに込められている部分はありますよね。
そうですね。ただ、芥川賞を受賞したことや綾部が渡米したことで変化があったのか、年齢を重ねてきての変化なのか。以前は30代、今は40代になって、僕に限らず年齢を重ねてまったく何も変わらなかった人は少ないと思うので、どの出来事から大きな影響を与えられたのかは、自分でもよくわからないんです。20代の頃もいろいろありましたが、30代はわかりやすく物事が動いた感じはしていますね。
――収録された「どこで間違って本なんか読むようになってしまったんや」「あの頃のようには本を愛せなくなってしまった」の項目では、どのように本と向き合ってこられたのかを感じ取れます。又吉さんにとって本とは、どのような存在ですか?
本は、自分と世間の考えを答え合わせしてくれるような存在です。例えば、近代文学の誰でも知っているような作家の本を読むと、わりと自分の内面について書かれたものが多いんですよね。それまで「自分はちょっと変なのかな?」「こういう悩みを持つこと自体が良くないのかな?」と考えるようなこともあったんですが、本を開くと、自分と同じようなことをしつこく考え続けている登場人物がいて。
しかも、それが芥川龍之介、太宰治、夏目漱石といった有名な作家の場合、その作品を多くの人が読んで理解している。だから、彼らの名前が残っているということは、自分の考え方や悩みなんてそこまでスペシャルなものじゃないのかなって。きっと自分と同じような感覚の人がいっぱいいるんだろうとわからせてくれたのは、本のおかげです。本を読んで、「この人はこういうふうに考えるんやな」と自分との距離を測ったり、「自分と一緒やな」と感覚を確認したり。映画や音楽も好きですが、本はほかにかわりのない、自分の指標みたいなものですね。
――今回発売されるのはエッセイ集ですが、エッセイではどのようなことを意識して書かれているのでしょうか。
基本的に読み物として、面白いものを書きたいです。そこから書き分けなどのテクニックの部分もあると思うんですが、あまりエッセイだから、とは考えていないですね。でも「共感されたい」ということだけで書ききるのは、わりと飽きているかも。だから、共感ベースで始まったとしても、途中や後半で違う展開を入れてみたり。みんなが知っている感覚をなぞるだけだと、ちょっともったいない気がするんですよね。
――単行本化にあたり、大幅に加筆・修正をされたそうですね。
オフィシャルコミュニティで100本以上作品を書いているのに、単行本化のために、書き下ろしで10本以上また新作を書いているんです(笑)。エッセイ集を出す場合、連載をまとめてちょっと直すぐらいの方が多いと思うんですが、僕は「この部分は好きやからここだけ残して独立させよう」とか、音楽で言うとアルバムを作り直すように「1曲目と2曲目の接続が悪いから間になんかもう1曲入れよう」というようなことをしつこくやった結果、めっちゃ変わってしまったという(笑)。でもまだ入れたいけど、入らなかった話もあります。最終的に、面白い本にしようとして、けっこう粘りました。
――カバーと表紙を漫画家の松本大洋さんが描かれていますね。特装版ではビロード貼りの本体や二日月の箔押しなど、エッセイ集としてはかなり重厚な造りです。
紙の本が好きなので、素材やフォントや色もこだわって選びました。エッセイ集にしては、ずっしりと重いものになっています。
いつか“笑える”小説を
――読書家の又吉さんですが、最近読まれて、印象的だった本はなんですか。
韓国のミュージシャンで作家のイ・ランさんのエッセイ集『話し足りなかった日』(リトルモア)は面白かったですね。文章は翻訳されたものですが、自分の信じているものがちゃんとあることが伝わりますし、言葉が強い。イ・ランさんのように真っ直ぐすぎる感覚の人をみんなで守っていかなあかんのちゃうかなって。ハッキリとものを言いすぎているけれど、読んでいると、何一つ間違ったことは言っていないんですよね。
例えば、化粧品会社か何かのタイアップの仕事があって、その時のインタビューで“表現をいろいろとされているのが美しさを保つ秘訣ですか”というようなことを質問されて、「いや、関係ないです」と言っていたら、「今回の話はなかったことに」となった話が正直に書かれていて(笑)。なかなかできないことだと思うんですが、そういう書きぶりとかが好きですね。
――では又吉さんご自身では、今後、どのような本を書きたいですか?
書きたいことがいっぱいあるんです。すぐには取り掛からないですが、何冊か小説を書いた後に“笑える”小説みたいなものが書きたいですね。今までお笑いにコミットした小説を書いていないんです。とはいえ、そんな本が書けるかどうか。面白いことを書こうとして失敗している人を何回も見てきたので、小説で人を笑わせることはすごく難しいことなんやろうなと。でも、太宰や内田百閒、町田康さんや西加奈子さんは、完全なコメディではないのになんか面白いんですよね。
僕も完全なコメディは無理ですが、やり方が見つかったら、笑える小説みたいなものをやりたいですね。登場人物がギャグやボケを言っているのではなく、真剣に生きているけれどなぜかそれが面白い、という作品が書けたらいいなと。でも、実際に笑える小説を書こうと取り組むのはけっこう勇気がいりますよね。だから、しっかり準備してやりたいです。まあ、言わないですけどね、笑ってもらえる小説書きましたとは(笑)。