ふらりと街を歩くのが楽しい陽気になってきました。春めいてくると、なぜか蕎麦をすすりたい誘惑にかられます。まずは、有楽町・更科(さらしな)の四代目店主(現在は閉店)だった藤村和夫さんが書いた、滋味たっぷりの『蕎麦屋のしきたり』(NHK出版)を味わいましょうか。
この本に書かれているのは蕎麦そのものの蘊蓄(うんちく)や作法の伝授だけではありません。たとえば、なぜ駅前に蕎麦屋さんがあるの? 関西と関東の蕎麦の違いって? ――蕎麦の周辺にある文化や歴史も含め、じっくり重層的に学べる構成になっています。一時流行だった自家製粉、蕎麦の薬味、汁のつけ方、秘伝の汁合わせ。蕎麦屋の旦那(だんな)の一日について綴る章もあり、暖簾(のれん)の向こうに小宇宙が広がっていることがわかります。
蕎麦屋といえば、「藪(やぶ)」「更科」「砂場」などの系列があって、ちょっと古風で頑固なイメージを持つ人がいるかも知れません。たしかに、老舗ごとに、蕎麦に特徴があって、頂き方も異なるようです。藤村さんによると、戦前までの蕎麦屋は暖簾ごとに結束し、自分たちの秘伝が他に漏れないように厳重に警戒していたのだそうですが、昭和20年代になってからは、よその店の大旦那から話を聞くことが自由になり、情報公開がいち早くされることになったのだそうです。
そんな話を紹介する藤村さんの筆致は江戸っ子調です。たとえば「召し上がる」は、「メシャガる」。あえてカタカナで書くことで、ひらがなや漢字では記せないような、江戸の言葉を響かせています。昔、僕らの祖先が喋った言葉が、藤村さんのなかに残り続けているのだろうと推測します。本のあちこちで、そんな表現に出合い、なんだか江戸へのノスタルジーを感じます。
かつて、テレビ番組のロケで、新潟から静岡まで、各地の蕎麦を食べ歩いたことがありました。善光寺の「手繰り(たぐり)蕎麦」、新潟の「へぎ蕎麦」、それから、静岡の山間(やまあい)でいただいた蕎麦は、谷で育った蕎麦を用いるため、他の品種と交じり合っていない歴史のある在来種とのことでした。香りが良く、絶品の蕎麦でした。蕎麦と、つゆとのバランスは、土地によって異なりますが、どれも考え抜かれた配合になっています。地域が連綿と磨き上げてきたものが、蕎麦の魅力です。
僕は昔ながらの東京の名店も大好きですし、駅前の立ち食い蕎麦屋にもしょっちゅう立ち寄ります。年齢を重ねるにつれ、蕎麦の奥深さに唸(うな)る機会が増えてきたように思います。朝一番の撮影のみで仕事が終わった日は、昼から通し営業中のお蕎麦屋さんに足を運び、午後3時頃からちょっと一献。つまみは蒲鉾(かまぼこ)、焼き鳥、卵焼き。「天抜き」だとか「吸い」だとか、そういう頼み方をする通になるには僕はまだ時期尚早と感じています。還暦を越えたら試してみようかな……。小一時間、蕎麦屋さんにいたのち、のれんをくぐって、まだ明るい外の世界へ。この一瞬はほかの何にも代えがたい幸せです。気楽さ、気軽さも、蕎麦の魅力ですよね。頼んだらすぐに出てくるし、つまみも肩肘(かたひじ)を張っていない。日々の暮らしに寄り添い続けてくれるのは、蕎麦の一番の美点だと思います。
本の巻末には「用語、隠語、口伝解説」も載っています。たとえば「トイチ」は、「上客」のこと。「上」の字を分解してつくられた隠語です。「トイチ」は、「足繁く、ほぼ同じ時間にお見えになり、ほとんど、毎回同じものをメシャガり、時折ほかのかたを連れてこられる」お客様のこと。それに対し「ハイチ」は、「下」の字を分解した隠語で、「立て込みの最中に来て『蕎麦が硬い』の『柔らかい』のと文句を言う客」のことだそうです。面白いですね。ただ、「ハイチ」にならないためにも、こうした隠語を知ったかぶりに使わないようにしようと思います。
やはり、客は客として、かっこいいプロの客でありたい。立て込んできたら、席を立つ。あとは、乱れるほど酒を飲まない。そんな大人の「トイチ」になりたい。藤村さんが投げかけてくれた先人の知恵がつまった数々の心得を、ぜひ読んでみて知ってください。こんなことを書いていたら、無性に食べたくなってきました。このあと、蕎麦を頂こうっと。
(大好きな神田まつやさんにおじゃましました。)
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藤村さんが名誉監修を務めた山本おさむさんの漫画『そばもん ニッポン蕎麦行脚』(小学館)もぜひ。じつは、藤村さんについては、こちらの作品から入りました。蕎麦職人の主人公が、津々浦々を旅しつつ、自分の理想とする蕎麦のあり方を探っていく。蕎麦を中心に人間模様を描く、心のホッとする物語です。
(構成・加賀直樹)