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若竹千佐子さん最新作「かっかどるどるどぅ」インタビュー “おらおらで”の前に今必要なのは、共に生きること

若竹千佐子さん=松嶋愛撮影

忘れられない、ホームレス女性のベンチ

――本作には、アパートを開放し、食事をふるまう吉野のもとに身を寄せる、4人の男女が登場します。一人目は、女優になる夢を捨てきれず、スーパーの仕事をクビになった60代後半の悦子。2020年に実際に起きた事件で、同じく元劇団員で試食販売員をしていた渋谷のホームレス女性・大林三佐子さんが殴られ、亡くなったことを思い起こしました。

 そうですね。大林さんが悦子のモデルというわけではないけれど、あの事件は身につまされました。事件を追ったテレビの特集番組に「彼女は私だ」っていう投書が殺到したそうですが、私も同じ気持ちでした。

 若いころ、郷里の岩手で教師を目指し、臨採教師をしていました。臨採教師というのは、産休や病休の先生の代わりになる先生ということです。次に空きがあればということだから、次々に仕事が見つかるわけではない。2カ月先になるのか、6カ月先になるのか、教育委員会からの電話待ちという状態。その間は無職、今でいう引きこもり、ニートの生活です。そんな生活を5年続けてついにあきらめて、今度は脚本家を目指そうと東京にいた姉を頼って上京。学習塾のバイトで食いつないでいました。その時、たまたま父親に地元でのお見合いを勧められ、縁があって結婚。あの時、夢を捨てずに追い続けていたら、私も彼女のような境遇にあったかもしれない。だから、彼女の痛みがよく分かります。

 番組で忘れられないのが、彼女が座っていたというバス停のベンチ。止まり木みたいなベンチで、細い板を2枚わたしただけ。間にしきりがあって、寝ることも寄っかかることもできない。彼女はここにいたんだ、と思うとたまらなかった。女の人はいったん支えを失えば、がらがらと崩れて落ちるところまで落ちてしまう。そして今やそれは女性だけじゃない。この小説には、ホームレス状態で死にたいと願う保という20代の男性が出てくるんだけれど、彼が座るベンチはあの大林三佐子さんのベンチを思い起こしました。

22世紀に生きる孫たちに

――悦子と保のほかに、舅姑の介護に明け暮れた68歳・パートの芳江、非正規雇用の職を転々とするアラフォーの理恵と、4人はそれぞれ困窮しています。

 彼女たちの明日が見えない暮らしは、悪戦苦闘していた臨採教師時代のかつての私の姿でもあるんです。今や非正規雇用が4割近く。どんなにか苦しいだろうか。来年の生活どころか、1カ月先の生活さえ見えない。それで「毎月いくらいくらあげるから子どもを産みましょう」って言われてもね。給付に反対しているのではなくて、その前に安心して暮らせる社会であり制度であれば、と思います。ただ、国に対しての憤りもあるけれど、そんな状況になっても声を上げない私たち側にも責任はあると思います。

――彼らは吉野の家に集まって食卓を囲み、ウクライナの戦争について意見を言い合います。理恵がアベノマスクをあえてつけたり、芳江がアベノマスクをほどいて再利用しようとしたり、前作より鮮明に時事や社会問題が盛り込まれていますね。それも「声を上げなくてはならないという責任」から来ているのでしょうか。

 そこに関しては迷いもあったんだけど、やっとプロになって、書いたものを多くの人が読んでくださる立場になったのだから、やっぱり言わなきゃいけないと思いました。

――中でも就職氷河期に苦労した理恵の「私は政治に無関心でいられない。私の痛みは個人的なことだけれど、巡り巡って政治的なことだ。」という言葉が印象的でした。

 「個人的なことは政治的なことである」というのは上野千鶴子さんの本で学んだことですが、まったくその通りだと思います。一人ひとりが社会を構成する一員だから、社会に対してものを言う責任と義務がある。でも、今、私たちは自己責任という言葉にからめとられて、「自分が努力しなかったせいだ」とか「おれは運が悪いから」って諦めさせられてしまっている。「そんなことない、声を上げていいんだ」と言いたかったのです。

 あとは老婆心もありました。「おらおら~」で芥川賞を頂いたあと、孫が生まれましてね。あっという間に4人。孫は可愛いって言われるけど、ほんとに可愛い。あの子たちは何事もなければ、2100年を迎える。今までそんな先なんて想像の射程外だったけれど、2100年になったとき、いったいどんな社会になっているのだろうか。この子たちが幸せでいられるだろうかと思ったら、黙っていられなかったのです。

――本作も「おらおら~」と同じく、登場人物それぞれの自問自答が豊かな言葉で描かれますが、それとは別に「連れでげ」「ノリコエテミナイカ」など天啓とも呼ぶべき声がします。

 これは、私の実体験からきています。「おらおら~」を書く前のこと。あるとき、「やっと気づいたか」という大きな声が、がんと響いたことがあったんです。今までの自分では立ち行かなくなるぎりぎりのときに、内側に潜んでいたものがグッと自分を揺さぶる。そういうことが、本当にあるんですね、実際に。その声を聞いたとき、私の中には大勢の人間が潜んでいて、じつはその合議制で私という人間は動いているんだと思いました。あれは衝撃的でした。

 元々、人間は心のうちに神を感じたり対話したりしてきたはず。でも今は宗教団体を巡る問題があったりして、宗教がなにか汚らしいもの、人をだまくらかす怪しいものってなってしまった。この不安の時代に、なおさら心のよりどころがなくなってしまった。不幸なことです。内なる声については、いつかもっと深く書きたいと思っています。

よりどころがあってこその、孤独

――「おらおら~」では家族の因果と、そこから脱し、自分を一番大切にしてそれぞれが生きていくことが描かれましたが、今作は「血がつながってなくても家族になれる」という新しいつながりの形を示します。この変化はどこからきたのでしょうか。

 今まで田舎の共同体というのは、家父長制に押し込められた個人の自由を阻害するものと教わりました。その格闘の歴史が明治以降の文学の歴史でもあると。でも、ひょっとしたらそれだけでもなかったのかな、と最近思うようになって。昔は人には確固とした居場所があって、そこで安心していられた。でも今は、核家族になり、さらに次の世代は家庭を持つことすら危うい時代。安心して自分を委ねられる新しい共同体が必要なんじゃないかな。それが吉野さんたちの一団で提案したかったことです。

 芥川賞の受賞後、病気でリハビリ専門病院に50日ほど入院したことがあったんです。事故やケガをした若い患者さんもいたけど、ほとんどは認知症や脳梗塞を起こしたお年寄りでした。食堂に集まって、みんなでご飯を食べるんです。それがみんなすごく嬉しそうなの。ちょっと認知症の気がある人が、毎度必ず「南無妙法蓮華経~」と唱えだして、その隣の人がすかさず「チーン!」と言ったりして(笑)。

 言語障害のあるおばあちゃんが退院のとき、オイオイ泣いていて、その時はやっと退院できるのにどうしてだろうと思ってたんだけど、しばらくして気づいたんです。あの人は家に帰れば孤独なんだろうって。私自身、「一人でなんでもできるわい」と思っていたけど、理学療法士さん、作業療法士さんと、いろんな方にケアされるありがたさを感じたし、結局は人と人とのつながりが大事だということを身をもって痛感したんです。

 前作の『おらおらでひとりいぐも』は孤独礼賛を書いたけれど、社会から孤立し、どうしようもなくなっている人たちにそれを求めるのは酷。安心して生きられる居場所があってこその孤独だと思うようになりました。

――今回の作品も、つい音読したくなる講談師のような文体が小気味よかったです。

 私は理路整然とした書き言葉よりも、感情のおもむくまま、話がこっちいったりあっちいったり、途中でバンバンと張扇で合いの手を入れるような話し言葉で書くことにこだわっています。いつも「あなたに向けてお話ししています」という気持ちで書いています。