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川奈まり子さん「眠れなくなる怪談沼 実話四谷怪談」インタビュー “お岩さん”が抱えた葛藤や孤独を書きたかった

川奈まり子さん=撮影・齋藤大輔

調べ出すときりがない「沼」、入門の手引きに

――『眠れなくなる怪談沼 実話四谷怪談』は、怪談作家として活躍する川奈さんが、日本を代表する古典怪談の実像に迫った一冊です。執筆の経緯を教えていただけますか。

 きっかけは2021年に発表した『東京をんな語り』(角川ホラー文庫)という作品でした。さまざまな女性たちに成り代わり、その人生をわたしが怪談仕立てで語るという小説ですが、これを読んだ講談社の編集者さんが「この手法で日本の古典怪談の女性たちを描けないだろうか」とお声をかけてくださったんですね。

 日本の古典怪談といえば「番町皿屋敷」や「真景累ヶ淵」もありますが、やっぱり誰もが思い浮かべるのは「四谷怪談」じゃないですか。個人的にも「四谷怪談」とは奇妙な縁がいくつかあって、前から気になっていた存在でした。

――「四谷怪談」には、よく知られた四世鶴屋南北の歌舞伎『東海道四谷怪談』の他にも、講談や落語など多くのバリエーションがあります。本書はその代表的なものを紹介し、解説を加えています。

 わたし自身、「四谷怪談」といえば「お岩さまが悪党・伊右衛門に復讐する話」というくらいの知識しかなく、あらためて資料を集めてみました。すると、歌舞伎、講談、落語、それらの種本になった実録本、田宮家の伝承など、それぞれ内容が異なっていて、想像していたのとはストーリーが違う話も多かったんです。

 山のように関連資料があって、読めば読むだけ情報が出てくる。コロナ禍の影響で国立国会図書館のデジタルコレクションが一気に充実したこともあり、執筆中にも次々と新しい資料が手に入りました。まさにはまったら抜け出せない“怪談沼”(笑)ですね。「四谷怪談」に関する研究書は数多く出ていますが、わたしのようにあちこちつまみ食いした本は珍しいので、「そもそも『四谷怪談』って何?」という方にも面白く読んでいただけると思います。

――川奈さんといえば体験者に取材した実話怪談の名手。本書にも「四谷怪談」にまつわる生々しい体験談や、『東京をんな語り』風の一人称怪談が収録されています。

 以前「真景累ヶ淵」にまつわる体験談をお持ちの方に取材したことがあったので、きっと「四谷怪談」絡みの怪異体験をした方もいらっしゃるだろうと思ったんです。執筆中にツイッターで応募し、何人かにインタビューが叶ったのですが、お岩さまの真似をして右目が腫れ上がったという方、実録本さながらに知人女性が失踪してしまったという方など、いずれも気味の悪い話ばかりで。お岩さまの祟りは今でも続いているんじゃないか……、とつい考えたくなりますね。

川奈まり子さん=撮影・齋藤大輔

令和の世相と響き合う生活苦

――幽霊の代名詞ともいえる「四谷怪談」のお岩は、実在した人物だともいわれていますね。

 豊島区の妙行寺にお墓があり、新宿区と中央区の於岩稲荷(おいわいなり)田宮神社に田宮家の末裔がお住まいなので、実在した人物であることは間違いないと思います。しかし資料によって人物像はまちまちで、疱瘡のために醜い顔をしていたとする説もあれば、容姿については一切触れていないものもある。共通しているのは若い女性だった、ということくらいです。このため「お岩さまは複数存在した」という説を唱えている方もいます。岩というのは江戸時代にはありふれた名前でしたから、その可能性はあると思います。

――後の「四谷怪談」の源流とされているのが、江戸時代の実録本『四ッ谷雑談集』です。作者不明のこの本は、現代の実話怪談のようなものだとか。

 江戸時代に書かれた実録本は実話を謳ってはいますが、怪しげな町の噂であっても、裏取り取材をすることなく「そういうことがあった」として載せている。わたしが書いている実話怪談と呼ばれるジャンルも、体験者から聞いたことを否定せず、そういうものだと受け入れて作品にします。たしかに勘違いや思い込みの可能性は捨てきれない。でも怪異体験談には、人間の真実が何かしら含まれていると思うんですね。『四ッ谷雑談集』も事実の記録としては疑わしいのかもしれませんが、怪異譚を通して人間の赤裸々な姿を伝えているのは間違いありません。

――お岩は御家人ながら下級役人(同心)だった田宮又左衛門の一人娘でした。『四ッ谷雑談集』の記述からは、お岩が生活苦にあえいでいたことがうかがえます。

 当時の下級御家人はたいへんな薄給で、副業をしなければ生活ができませんでした。今でいうワーキングプアですよね。伊右衛門が与力の家の普請をしているという『四ッ谷雑談集』の記述からは、田宮家の厳しい経済状況と、上司の顔色をうかがって生きるしかない下級武士の悲哀が伝わってきます。日々の生活に追われ、将来に希望を抱くことができない。こういう環境で生きるのは、なかなかに難儀なことであったろうと思います。

 さらに『四ッ谷雑談集』はさまざまな病気の物語でもある。お岩さまの顔を醜く変えた疱瘡にはじまり、熱病や眼病などが登場人物を苦しめる。格差とコロナの時代に生きるわたしたちにとって、お岩さまの苦しみは決して遠いものではないんです。

――『四ッ谷雑談集』以降、「四谷怪談」は講談、落語、歌舞伎とさまざまなバリエーションを生んでいきます。それぞれ特徴があって、読み比べると面白いですね。

 江戸時代後期に作られた講談版は、『四ッ谷雑談集』をもとにしているものの、よりストーリーが複雑に、心霊現象も派手になっています。講談版を改作した落語版の原型は、エログロ趣味が濃厚に。でも落語は次第に洗練されましたし、講談でも、近年では若手の講談師さんらによって現代的な解釈による新たな「四谷怪談」も生まれてきている。「四谷怪談」は時代とともに変化し、進化し続けていくものだと思います。

『眠れなくなる怪談沼 実話四谷怪談』(講談社)=撮影・齋藤大輔

出版業界にも残るジンクス

――「四谷怪談」といえば、ついて回るのが祟りの噂。芝居などで「四谷怪談」を上演する際は、関係者が必ずお岩ゆかりの寺社に参詣する、というのはよく聞く話です。

 田宮家の現当主で、於岩稲荷社の禰宜(ねぎ)である栗岩英雄さんは、祟りなどというものはない、とはっきりおっしゃっていました。わたしも同じ考えです。祟りがあるぞ、あるぞと思って暮らしていると、些細な怪我やトラブルでもお岩さまに関連づけてしまう。人の心ってそういうものだと思うんです。

 でも聡明で理知的な栗岩さんご自身が、田宮家とのお見合いを断ったらお風呂の床が崩れて怪我をしたので、お見合いを受けることにしたとおっしゃっているのがまた面白い(笑)。いざ我が身となると、誰も冷静ではいられないのかもしれません。

――川奈さんは今回お祓いに行かれたんでしょうか。

 取材を兼ねて行ってきました。わたしは一度もお祓いというものを受けたことがなくて、今回も行かずに済ませるつもりだったんです。ところが編集者さんが上司から「『四谷怪談』をやるなら行かないと」と命じられたそうで(笑)。出版業界にも「四谷怪談」のジンクスは根強く残っているんですね。

 お祓いの様子は本にも詳しく書きましたが、栗岩さんが祝詞を詠みはじめた途端、於岩稲荷社の拝殿がぎしぎし強風で揺れ出して……。あれは怖かったですね。

――他にも「四谷怪談」絡みの不思議な体験があれば教えてください。

 今から10年ほど前ですが、ふと思い立ってお岩さまのお墓がある妙行寺にお詣りに行ったんです。お詣りというより物見遊山だったんですが、お墓に手を合わせて、それからタクシーで移動しました。車を降りたところで運転手さんが「落とし物だよ」と。見ると化粧ポーチにしまっていたはずの柘植の櫛が、シートに落ちていたんです。その日は一度もポーチをバッグから取り出していなかったので、おかしな気がした。

 その後、お岩さまのお墓には遺骨の代わりに櫛と鏡が納められていると聞き、あらためてぞーっとしました。「四谷怪談」に関わっていると、祟りと偶然、現実と幻想の境目はどこにあるのかと考えてしまいます。

川奈まり子さん=撮影・齋藤大輔

わたしたちを惹きつける復讐のカタルシス

――亡霊となったお岩の心境を一人称で描く「霊女抄」も印象的でした。お岩の抱えていた孤独や執着がひしひしと伝わってきました。

 今でこそお岩さまは「江戸三大幽霊」などと呼ばれていますが、四世鶴屋南北の頃までは、生身の女性としてとらえられていた気がするんですね。『東海道四谷怪談』のお岩さまは夜鷹に身をやつし、体を売って生活します。南北はお岩さまと近い環境で生きていましたから、その描写には夜の世界で生きる女性たちの哀愁が込められている。私には、諸事情あって、そういう環境にいる現代の女性たちのことが少しだけ分かるので……。お岩さまは恐ろしいだけでも、妖艶なだけでもない。彼女が一人の人間として抱えていた葛藤や孤独があるはずだと直感して、怪談として書いておきたいと思いました。

 怪談の背後には、市井の人々の暮らしがある。それは古典怪談でも現代怪談でも同じです。だからこそ不思議な話、怖い話に多くの人が魅了されるんじゃないでしょうか。どこまで成功したかは分かりませんが、この本はお岩さまを一人の女性に還元していく作業だったような気もしています。

――本書を読んでいると、お岩のことが怖くなくなります。川奈さんは田宮岩という女性について、どんな印象を抱いていますか。

 生活力があってたくましい、“普通の女性”だったんじゃないでしょうか。病気で辛い思いもしたかもしれない、夫の伊右衛門との仲も良くなかったのかもしれませんが、長女として田宮家を支え、妙行寺の由緒に従うなら36歳まで生きた。

 そのたくましさはわたしのお祖母ちゃんと重なるんです。わたしの父方の祖父は生まれてからほとんど働いたことがないという人で(笑)、お祖母ちゃんが和裁士として家計を支えていました。生活苦からわたしの父は、幼い頃親戚のお寺に預けられていたそうです。講談や落語の伊右衛門と似たような境遇なんですよ。こうした話を聞いて育ったわたしにとって、お岩さまや「四谷怪談」は闇雲に恐怖する対象ではありません。この本を読んだ方も、お岩さまをどこか身近に感じてもらえたら嬉しいですね。

川奈まり子さん=撮影・齋藤大輔

――300年にわたって語り継がれてきた「四谷怪談」。日本人はこの怪談のどこに惹かれているのでしょうか。

 いろいろな理由があると思います。お岩さまと伊右衛門、お花の三角関係は日本神話に通じる普遍的な構造を持っているだとか。でも一番大きいのは、虐げられた者が悪人に復讐するという展開のもつカタルシスじゃないでしょうか。多くの読者はお岩さまに感情移入して、伊藤(東)喜兵衛や伊右衛門が滅んでいく姿に痛快さを覚えます。何も18人も祟り殺すことはないんじゃないかと思いますが(笑)、やり過ぎなくらいが気持ちいいんですよね。韓国ドラマの復讐ものに夢中になるのと同じです。

 生きていると誰しも、人間関係で苦しむことがある。その辛さをお岩さまが代わって晴らしてくれるところに、「四谷怪談」の力強い面白さがあるんじゃないでしょうか。さらに面白いのは、それが実話として語られていること。虚実が交錯するような怪しい感覚も、「四谷怪談」の魅力ではないでしょうか。