石垣りんの代表作といえば、「表札」だろう。この詩の最終連は「精神の在り場所も/ハタから表札をかけられてはならない/石垣りん/それでよい。」だ。高等小学校卒業後、14歳で日本興業銀行に事務見習として就職。55歳で定年退職。働きながら詩を書き続けた。祖父、父、義母、弟たち家族6人の生活を、石垣りん一人が支えた時期もあったという。生涯独身で、定年の5年前に1DKのマンションを購入。自分だけの場所を得た。
文庫オリジナルとして編まれた『朝のあかり』は、ゆっくりと、言葉を噛(か)みしめながら読むことのできる本だ。どのページにも、どの行にも、石垣りんがすっくと立っている。文章の選び方や構成も、とてもよい。
世間を観察し、意見を述べるところがあっても、押しつけがましさからは遠く、くすっと笑えるユーモアが珍しい香辛料のように効いている。戦前、戦中、戦後と生きて、日々の現実と向き合い続けたこの詩人は、ものの感受の仕方と判断力に無類の潔さがある。それが一貫していて、信頼感がある。
「ただ生きて、働いて、物を少し書きました。それっきりです」という。なんともあっさりした描線ではないか。女性が一人で働いて生きていくこと、そういう生き方を貫くことは、現在とは比較にならないほどの難しさを伴ったはずだ。けれども、石垣りんは実行した。
詩とは、虹を書くことではないと、作者は虹を例えとして述べる。「虹をさし示している指、それがどうやら詩であるらしい」と。「間違っているかも知れません。私の書く指の向こうには鍋だの釜だのがあるばかりで、それで生活詩などと言われているのですから」
地道に働き、生活をかたちづくる。やりたいことを実現するために励む。ここには生きることの基本がある。本書が静かな広がりを見せているのは、この基本を思うことが、いま求められているからではないか。=朝日新聞2023年6月10日掲載
◇
中公文庫・990円=4刷1万5千部。今年2月刊。「著者のエッセーは、新刊で入手できるものがほとんどなく、本書をベスト版にしたいという気持ちで掲載内容を選んだ」と担当者。