途中で3回大きな曲がり角が訪れる
田中兆子『今日の花を摘む』(双葉社)はあらゆる点で予想を上回る小説だった。
柄が大きく、間違いなく作者の代表作となるはずである。
話の筋が意外な展開をするだけではなく、小説が変化していって最初に見えていたものとは別な様態に進化していく。主人公を含む個々のキャラクターも、物語が進むにつれて違った顔を見せるようになるのである。読んでいると『今日の花を摘む』という作品の中で生きているような錯覚に陥る瞬間すらある。読者の住んでいる世界がかなりの精度で小説に写し取られているのだ。しかもその解像度には読解によって違いが出てくる。注意深くこの世界を見ている者の眼には、より精細な映像が浮かぶはずである。鮮やかな情景に、はっと気づかされる瞬間がたびたびある。これが自分の生きている場所なのかと教えられる。読む前と後とで、世界に対する態度が変わる人も出るのではないだろうか。
こうしたことの全部がつまり、予想を上回るということなのだ。実は内容が紹介しにくい小説でもある。物語は途中で3回大きな曲がり角が訪れる。いや、細かいものはもっとある。そのたびに様相が変化して、その前とはまったく違った話を読んでいるような気分にさせられるのである。最初は単にびっくりしただけだが、次からは期待するようになった。どんな景色を見せてくれるのだろうか、と。その楽しみをこれから読む人にはぜひ味わってもらいたいので、あらすじを紹介するのは最初の大きな曲がり角の手前までにする。
最初の大きな曲がり角の手前までのあらすじ
主人公の草野愉里子は東京都新宿区にある中堅出版社に勤めている。ヘバーデン結節がちょっとした悩みの種になっている51歳は、会社では製作部課長の地位にある。「女ライオン」の異名をとる同期入社の森潤子ことモリジュンは編集長として数十人の部下を率いる立場だから、草野はすでに出世競争で後れを取っていることがわかる。別の部署から移ってきた新実という男性が製作部長で、ベテランの草野が仕事の切り盛りでは彼を助ける立場にある。
若手の部下がいて、ひとりは男性の池田、もうひとりは松岡という女性である。給湯室に中高年の社員がたむろするのを小馬鹿にする池田は、シアトル系のショップで淹れてもらったコーヒーをタンブラーで持参している、ことになっている。だが草野は、池田が途中のコンビニエンスストアで買ったコーヒーをそのタンブラーに入れ替えているのを目撃したことがある。もう一人の松岡はブランドものをセンスよく着こなす女性で、靴も常にハイヒールだが、作業中はそれを脱いで机の下の段ボール箱に足を載せている。先輩にあたる池田がジミーチュウを見せびらかして、とからかい、草野がそれをやんわり窘めて松岡に目顔で礼を言われる、という場面で人間関係がくっきりと描かれる。序盤で読者に示される人間模様は後々の展開で重要な意味を持ってくるから大事なのだ。新しい登場人物が出てくるたびに、さりげなく印象的な場面が描かれて、その人物像が読者の中に刻み込まれていく。
草野は仕事の傍ら茶道を嗜んでいる。昨日や今日始めたわけではなく、ずっと続けている趣味だ。最近の彼女は、70歳の万江島巽という男性が亭主となる茶会で半東を務めている。半東というのは茶会を回すための司会者のような役割で、仕事場だけではなく草野はここでも気働きをしているのである。万江島が茶会を開くのは神奈川県横須賀市の高台にある800坪の邸宅だが、そこに向かおうとした草野の前に鹿野という男性が現れる。草野は彼と、つい最近一度だけセックスしたのである。
ここでやっと題名の意味が説明できる。草野は結婚を終着点とする恋愛ではなく、自分の性欲を満足させるためのしがらみのないセックスをすることを好んでいた。それを「花摘み」と呼んでいるのである。鹿野とは一度花摘みをしたものの、結局関係を断つことになった。それに当たって悶着が起き、万江島に助けられた草野は彼に、自分の花摘みについて茶室で話すようになるのである。万江島は草野を「私のシェヘラザード」と呼ぶ。
精度の高い描写が生みだす切実さ
あらすじを書くのはここまでにしておこう。独歩の人生を満足しながら送っている主人公が、自身のセックスについてあけすけに語る、というのが『今日の花を摘む』が読者に示す第1の顔である。草野がもっとも嫌うのは自分を偽ることで、この後もさまざまな場面で葛藤し、時には自己嫌悪に陥りながらも心と体を満足させる道を追求していく。草野が嘘を吐かないように、彼女の体も偽らない。たとえば51歳の彼女は、濡れなくなった。行為に当たっては、前もって潤滑ゼリーを忍ばせておくこともある。下半身に関することをいたずらに糊塗しないのは本作の美点で、このあとに訪れる大きな曲がり角の一つにもそれが関係している。
そうした率直な人間である草野が20歳近くも上とはいえ、異性である万江島に自身のセックスについて告白したらどうなるか、と読者は想像するに違いない。それが当たっているかどうかは実際に読まれるといいと思う。ネタばらしをしない形でちょっとだけ書いておくと、セックスの扱い方には実に工夫のある小説である。単一のありよう、つまり男性器と女性器が結合すればすべては解決、みんな幸せオールハッピー、というようなセックスをこの作者は書かない。多様性があることを示そうとしているだけではない。そういった単一のありようだけを持ち上げるやり方は、実は歪みを含んでいるとこの物語は指摘するのである。上品な〈好書好日〉に申し訳ないが、一度だけ書かせてもらいたい。小説の主題の一つは、男根主義の否定である。
あとはもう書かない。帯に「中高年世代の性愛にタブーを怖れず挑んだ衝撃作」とある本当の意味は、小説の後半部で判る仕掛けになっている。タブーとは何か、ということだ。小説としては真の主題であり、それが姿を現した途端に物語はすべての読者にとって切実なものに変貌する。女も男も関係ない、この時代と社会に生きる者すべてにとってとてもとても切実な小説に。ああ、書きたいが、それは書評に許される分を超えてしまう。慎もう。ちょっとだけヒントを書くと、この小説の時代が今よりもちょっとだけ前に設定されているのはなぜか、ということだ。神田伯山が6代目を襲名しておらず、まだ前座名の松之丞である。
最後にもう一つだけ。茶会の場面を読めばわかるように、ディテールが実に丁寧に書きこまれた小説であって、描写を読むのが非常に楽しい。もう一つ小説の部品で楽しいのは、さまざまな本や先行作が、物語を性格づけるためのモチーフとして使われていることである。たとえば「花を摘む」という言葉はローマの詩人ホラティウスの「今日一日の花を摘み取ることだ。明日が来るなんてちっともあてにはできないのだから」という文章から採られている。この言葉も玩味したいところなのだが、まあ、措いておこう。とにかくさらっと置かれた一文が最高なのである。
たとえば同じ高校だった友人の瑠都という女性について書いたこんなくだり。ファンデーションを主人公が貰う場面だ。
――瑠都はいつもすまなそうに渡し、私はいつも堂々と受け取る。その呼吸は向田邦子の『あ・うん』の門倉と水田みたいな感じだ。
ここで『あ・うん』の説明を入れないのがいいんだよね。