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極限の地、北極で生きる意味を問う。裸の大地シリーズ『第二部 犬橇事始』刊行記念トークイベント開催 角幡唯介×竹沢うるま

7月9日に開催された、角幡唯介さん(中央)と竹沢うるまさん(右)のトークイベント

見える世界がまったく違う

 角幡さんは北極に近いグリーンランドの村・シオラパルクに毎年数カ月滞在し、現地でそりを引く犬を訓練しながら、北極圏の旅を続けています。3部作の予定で執筆が進む「裸の大地シリーズ」の旅の狙いを、角幡さんは「生きるとは何か」を探ることだと話しました。

角幡 僕はこのシリーズの前に『極夜行』という本を出しています。北極圏では冬になると、太陽が昇らない闇夜が続きます。その時期の北極圏の旅での体験、感じたことをまとめたものです。僕は学生時代から、極限環境で生きている自分を感じたいとの思いを抱いていました。人間が生きているということは、そもそもどういうことなのか。自分が何のために生きているのかを知りたい。それが僕の旅の根本的なテーマです。

 それもあって旅では何ごとも、自分の力でやりたいと思っています。なかでも食べることは、生きる意味で根源的な活動です。そこで「裸の大地シリーズ」では、狩りをテーマにしたんです。狩りをしながらの旅は普通の探検とはまったく動きが異なります。普通の冒険や探検には必ず到達すべく目標があります。でも食料調達のために狩りをしなくてはならないとなると、見えてくる世界がまったく変わってくるんです。

――『犬橇事始』でも、まっすぐ目的地を目指すのと、アザラシのいるところを経由して狩りをしながら歩むのとではルートも根本的に違う。後者の方が自然に近く、人間らしい旅だと書かれていましたね。

角幡 目的地があると、そこに到達することが優先されます。途中でアザラシが現れても、無視した方が効率的です。でも狩りとは、その瞬間に出会ったものを相手にする行為です。その土地や風景に、自分自身が深く関与する必要があります。目的地優先の旅より、その瞬間の土地の状況に自分が組み込まれるような狩猟的な世界こそ、太古の人間が生きていた世界なのだと感じます。それこそが測量され、数値化された地図にはない、むき出しの自然なんだと考え「裸の大地」というシリーズタイトルをつけたんです。

 ただ徒歩だとアザラシがいっぱいいても、すぐ逃げられて捕まえることができません。そこで第二部では犬ぞりを覚え、自分の行動半径を広げながら、アザラシを獲ろうと考えたんです。それは事前に決められた量の食料をもって行く今までの冒険とは異なる、無限の可能性を秘めた旅になるのではないかと思いました。

機材を積んだ犬ぞりが暴走

 撮影のため一部同行した竹沢さんが見たのは、常に死と隣り合わせの極限の状況で、「生きる」ことが生々しく目の前に迫ってくる現実でした。

竹沢 現地で一番初めに思ったのは、ものすごくリアルな世界だということです。寒さ、犬ぞりから落ちたときの痛さ、何かを食べたときに体内に食べ物が取り入れられる感覚など、いろんなものがむき出しのリアリティをもって感じられるんです。

 僕は角幡さんの『極夜行』を読んだ時、真っ暗な日が続いて何カ月ぶりかに出てくる太陽のシーンがとても印象的でした。そこで近所に住む角幡さんに、「極夜明けの太陽を見たい」なんて話を以前からよくしていました。そしてある時、その辺まで遊びに行くかのような軽い感覚で、「北極に一緒に行かないか?」と誘われたんです(笑)。でも、犬ぞりに置いてきぼりにされたらどうなるんだろう。シロクマが襲ってくることはないのだろうか。そんな不安も感じていました。実際に現地では、300万円ほどするカメラ機材全部とパスポートを乗せた犬ぞりが僕を置いて勝手に遠くへ走って行ってしまい、途方にくれたこともありました(笑)。

角幡 犬ぞりをやる人はみんな最初に、犬の暴走の洗礼を受けます。とくに村から海へ向かっては坂になっているので危険です。だから12、3頭の犬をフルに動かすときは、必ずブレーキ代わりの錘を載せます。あの時はたまたま錘を載せていなかったので、犬が猛スピードで突っ走ってしまったんですね。犬は一度走りだすと止まりません。

自分で考え、あるもので対処する

竹沢 北極ではみなさん一見、安全に普通に暮らしています。でも一歩間違えたら死がそこに存在している。そんな感覚が常にあります。ものを食べる行為が生きていることにつながっているなんてこと、都会の生活では日頃、わざわざ感じたりしません。でも北極で狩りをし、動物をさばき、その命をいただいていると、それによって自分の命が存在していることがリアルに実感できるんです。

――角幡さんは今回、竹沢さんの撮影が入ったことで、普段の行動と違いが出たりしましたか。

角幡 とくに意識したことはないですね。ただ竹沢さんの参加をきっかけに、僕の犬ぞりの技術はすごく向上しました。竹沢さんのために2台の犬ぞりを扱う現地の人を雇ったのですが、彼らの犬の動かし方を間近で見て、すごく勉強になりました。僕は犬ぞりを独学で習得したので、わからないことや知らないことが多かったんです。

竹沢 角幡さんがすべてを自分で試行錯誤してやっていたことは、ものすごく新鮮でした。ある時、調理用のストーブを修理していた角幡さんに「手伝おうか?」と言ったら「自分でやるからいい」と断られたことがあります。角幡さんはなにごともすべて、ゼロから自分でやろうとします。ネット検索で答えをすぐ知ることの対極のようなことをしているんです。初めはすごく効率が悪いと思って見ていました。でも一緒にいるうちに、どんなことでもまず自分で考え、そこにあるもので何とか対処しようとする。そのような姿勢だからこそ、北極を2カ月間1人で旅するようなことも成し得るのだと思いました。

極限の地の経験で感じた生命力

 印象に残る旅のエピソードとして、角幡さんは狩りをすることの葛藤、竹沢さんは死の危険が迫ったことで生じた心境の変化を挙げました。

角幡 今回の旅の帰りに、食料が足りなくなって2頭のジャコウウシを獲ったことがあります。ジャコウウシはすごく仲間思いの動物なんです。そのときは4頭の雄の群れがいて、1頭は逃げ、1頭がその場にとどまっていました。獲った2頭は犬の餌用に解体し、その日はそこに泊まりました。次の日、その場にいたジャコウウシが突然、僕のほうにドスン、ドスンと歩き始めました。テントに戻ってライフルを構えていたら、そのジャコウウシは解体された遺体のところで、自分の体を解体された仲間の毛皮や肉になすりつけ、血まみれになり、しばらく苦しんで、ばたっと倒れて死んでしまったんです。

 最初はなにが起きたのかわかりませんでした。おそらく仲間の死を憤って死んだのだと思います。怒りの感情で血圧があがり、脳の血管が詰まったのかもしれません。あのような姿を見ると、人間とまったく変わらないと思います。ジャコウウシにはこういったエピソードが多くて、獲ったときはよく自責の念に襲われます。自分が生きるためという大義名分は、この動物を殺す言い訳にならないのではないか。自分の仲間が殺されたことに怒り震えて死んでしまうような生き物を殺すことは、人間の権利として許されるのだろうか。そんなことを考えてしまうんです。

竹沢 たくさんありますが、一番大きいのは自分で犬ぞりを操って、氷床を越えて村まで帰ったことです。角幡さんと別れた帰り道、氷床の天候悪化が予想され、急いで村まで帰らなくてはなりませんでした。その際に様々なアクシデントがあり、その結果、私が犬ぞりを操らなくてはならない状況になりました。ぶっつけ本番で氷床の上を走りましたが、まったく犬が言うことを聞いてくれません。角幡さんが犬をよく怒鳴っていた気持ちがよくわかりました。

 もっとも印象的だったのが、このとき氷床の上で「このまま無事帰れるのだろうか」と不安を感じながら見た白夜の太陽です。あそこまで美しい風景を見たことはありません。真っ白な氷の大地が広がっている上に空があり、ピンク色の太陽がぽつんとある。それだけなんですが、久しぶりに純粋にこの風景を写真に撮りたいと思い、犬ぞりを操りながら撮りました。北極で生きるか死ぬかの経験をしたせいか、日本に帰ってきてからは植物に強く引かれるようになりました。白夜の太陽を美しいと思ったのと同じような感覚で、植物や花、虫などにものすごい生命力を感じるようになったんです。

北極メシ、どんな味?

 会場に詰めかけた約150人の参加者からは、2人にたくさんの質問が寄せられました。中でも多かったのが"北極メシ"。「ツイッターを見てアザラシの炊き込みご飯が衝撃だったのですが、どんな味なのですか?」との質問に2人は――。

角幡 アザラシの炊き込みご飯は、40年以上シオラパルクで漁師をしている日本人の方に教わったものです。玉ねぎと塩コショウ、少しの醤油を入れて炊き込むだけです。アザラシの出汁が出て、とても美味なんです。アザラシはクジラに似た味で、血液成分がすごく濃い感じです。ただ食べ物の味の説明は難しいですね。以前、「シロクマの肉の味は?」と聞かれ、「王者の味です」と答えたことがあります(笑)。オオカミも美味しいんですが、「オオカミの味はキタキツネと同じだよ」と説明しても、みなさんキタキツネを食べたことがないのでなかなか伝わりません。

 向こうの人の調理は、アザラシもセイウチもほとんど塩茹でです。あとアッパリアスという鳥を使ったキビヤックという料理があります。羽毛がついたままのアッパリアスを内臓や肉をとったアザラシの皮の袋に入れ、2、3カ月発酵させて冬の保存食にするんです。毛をむしりながら、むしゃむしゃ食べます。

竹沢 角幡さんは手を血まみれにしながら、1日5羽、6羽と食べていましたよね。僕も食べてみましたが、たしかに美味しかったです。味付けは一切せず、アザラシの皮の袋に入れて発酵させただけなんですが、とても優しいまろやかな味がします。

坂を越えた先に新たな坂が

 「ご自身の性格や好奇心を形成する上で、大きく影響を与えた子供時代の経験や書籍を教えてください」という質問に、角幡さんはこう答えました。

角幡 唯一印象に残っている本は、小学生の時、国語の教科書で読んだ『あの坂をのぼれば』(杉みき子)という作品です。おばあちゃんから「あの坂を越えれば海が見えるんだよ」と言われて育った少年が、海を見ようと坂を越えるけど見えない。坂を越えたと思ったら、さらに坂が続いている。今、自分がやっていることもそれだと思います。最果ての場所に行きたいという気持ちがあるんです。『裸の大地シリーズ』は、地球の陸地としては北の果てにあるエルズミア島を目指す旅です。そうやって僕はいつも坂を登っているんですが、その先はなかなか見えません。

 僕も諦めることはあります。これ以上行ったら死ぬなと思ったときです。そのようなギリギリの瞬間は、日本の山登りでも常にあります。客観的に考えれば絶対にその先に行かないほうがいい場面でも「本当は行けたんじゃないか?」と後悔します。その判断が間違っていなかったからこそ今、僕は生き残ってここにいるわけですけどね。それでも「もしかしたら行けたんじゃないか?」との思いは拭いきれません。人間というものは、常に到達しない思いを抱えながら生きていかざるをえない生き物なんだと思います。

「自分だけの地図をつくる」

 「憧れの人物や、これからこういうふうに生きたいというイメージ」を聞かれた角幡さんは、昔のイヌイットやアイヌの生活を挙げました。

角幡 唯一、ああなりたいと思うのが昔のイヌイットですね。100年前の探検記などを読むと、よくイヌイットがガイドとして登場します。彼らの旅行スキルはすごくて、ああいう旅行ができたらいいなと思います。最近、北海道の山登りもよくしているのですが、江戸時代から明治時代にかけて北海道を探検した松浦武四郎という人がいます。彼の本を読むと、昔のアイヌの人の旅や生活、修行のやり方に憧れたりもします。

 最後に角幡さんと竹沢さんは、それぞれ「自分を信じて、自分の目で確かめて」とメッセージを送りました。

竹沢 2カ月間、北極の暮らしをともにした人間から見て、『犬橇事始』には北極での暮らしが余すことなく描かれています。犬ぞりや北極のことを知りたい方は、ぜひ読んでみることをおすすめします。そのうえでさらに北極に興味がある人は、ぜひ一度現地に行っていただきたいですね。今は飛行機代さえ負担すれば、カナックくらいまでは誰でも行けます。そこはもう、目の前に大きな氷山があり、村人が犬ぞりを走らせている北極の世界です。そんな世界をぜひ自分の目で見て、リアルな寒さ、痛み、美味しさを感じてほしいと思います。

角幡 『犬橇事始』には僕が現地で体験したことをそのまま書いたので、読みやすいと思います。「自分だけの地図をつくる」ことがこのシリーズのコンセプトです。今の社会は自分が何かをするうえで、外側の視点、他者の考えに同調せざるをえない状況があります。自分の内側から本当にやりたいことを実行することが、難しくなっているんです。とくに若い人はSNSの影響で、自分の行動が他人にどう思われるかを気にし、変に思われることを恐れています。外部の視点に、自分の生き方を左右されているんです。でもそれでは、本当に楽しいこと、生きていて良かったと思えるようなことには到達できません。

 自分が本当にやりたいことは、外側の視点とは必ずしも一致しません。外側の視点に合わせて生きている限り、ニヒリズムや虚無感を払拭できないでしょう。それを払拭するには、自分の内側から湧き上がる思いに忠実に生きるしかありません。そんなことをやっても無意味だと言われるかもしれませんが、無意味でいいんです。人が無意味だと言うことは、自分にとってだけ意味があることです。だからこそ、自分が生きている存在証明になるんです。

 僕はそんな思いを込めて『第一部 狩りと漂泊』の巻末に大きな地図を載せました。このシリーズは3部作、もしかしたら4部作になるかもしれませんが、これからもそんな思いを込めて、書き続けていきたいと思っています。

(司会は「好書好日」副編集長・吉野太一郎)