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安藤正子「ゆくかは」 やがて「世界の記憶」に変わる個人的な「今」

安藤正子(1976年生まれ)は、鉛筆や油彩で、子供や動物、草花などを詩的な雰囲気で描く。9月3日まで、愛知県の一宮市三岸節子記念美術館で個展開催中。図版は、本書から「ムービータイム」(2021年)。Sticker by モニョチタポミチ・鱗片堂 Photo by Tamotsu Kido (C)Masako Ando, Courtesy of Tomio Koyama Gallery

 今の生活の風景が「絵画」として現れたとき、無数の生活が重なり合い、そして織りあげたものこそが世界ではないかと私は考えてしまう。いつの時代でも、生活にあるもの、こと、景色が、誰かの作品になることは、その刹那(せつな)が時間の流れに残されていくこと、特に絵画として残るとき、その絵の前に立つ鑑賞者が次第に絵の描かれた時間から離れた存在になっていくことを想像し、いつかは「過去の風景」となる「今」について考えてしまう。今、この時を生きている私たちにとって、私たちの生活はとても個人的で、世界と繋(つな)がっているとはなかなか想像し難いけれど、遠い未来では過去のどんな断片的な風景も、その過去を代表するものとなり、個人ではなく「世界の記憶」に変わっていく。

 誰かが自分の個人的な「今」を形にして残すことは、その人の「記録」として終わることではなく、いつも、もっと大きなものの断片として、遠い未来へ届けることなのだ。世界から切り離されている人は誰もいない。つい忘れがちになるそのことを、芸術は思い出させてくれる。「作品にする」という行為は、だからこそ美しい。

 生活の風景が作品になる時、その刹那を、描くために選ぶ人がいて、そしてその作品に惹(ひ)かれて足を止める人がいる。同じ時代を生きる私が同じ時代の「生活」に足を止めることは、通り過ぎた過去の風景を描いた作品に心惹かれるのとは全く異なることのように思う。作品に描かれた風景だけでなく、自分もまた、いつかは過去に封じ込められて、そして「世界」という大きなものの一部になっていくことを予感させる時間だ。それは同時に、今この時を、たとえば地球の裏側で、もしくは隣の家で生きている、知らない誰かの個人的な生活を、そして気配を、遠い未来ではなくリアルタイムに今、感じることでもあるのかもしれない。=朝日新聞2023年8月5日掲載