寺山修司(1935~83)は、映画、ラジオ、テレビ、演劇と、およそ詩人というだけでは掬(すく)いきれない活動の場を持った。街中での同時多発的演劇で世間を騒がせもした。盗作嫌疑やのぞきなど不名誉な逸話もある。
『思いださないで』は、そんな寺山が一方で力を入れていたメルヘンの詩物語集である。書名の意図は「思い出さないでほしいのです/思い出されるためには忘れられなければならないのがいやなのです」というエピグラムに集約されている。遠回しな「忘れないで」の意だが、没後40年の今年も関連イベントは多く、忘れられる気配はない。笹目浩之『寺山修司とポスター貼りと。』では、昨今の寺山受容の仕掛け人である著者の半生が、戦後日本文化を担ったメディアとしての演劇ポスターの重要性とともに語られる。賑(にぎ)やかな時代だっただろう。寺山は今も、社会の常識に反逆するトリックスターとしてよく知られる。
しかし寺山の底にあった殉教者にも似た誠実は、あまり知られていない。寺山の誠実を考えるなら、車谷長吉(1945~2015)を横に置くと良い。直接の影響関係はなさそうな2人だが、彼らの(車谷は小説で、寺山は主に戯曲で)描く前近代的農村や、方言の多用、周縁社会の住人への眼差(まなざ)しには、相通じるものがある。何より近いのは、露悪的な家族語りだろう。両者は、自らの父母や親族を題材に、その暗部を晒(さら)す。
想像力で超える
但(ただ)し、自己の捉え方においてこの2人は決定的に異なる。車谷は、中流サラリーマン生活を放擲(ほうてき)して送った流浪の日々を直接の糧として、彼自身を想起させる「私」の小説を書いた。一言一句磨き抜いた言葉で綴(つづ)られた、自他へ向けた悪態から成る車谷文学は、『赤目四十八瀧心中未遂』に倣えば、「尻の穴から油」を流しながら、「自分を崖から突き落と」す世捨人(よすてびと)の修行そのものである。一方寺山は、いつも自信に満ちている。大学生のときに大病を患い、病床で作歌するにあたり、寺山は自己の悲惨な現実を詠むことを嫌った。想像力によって過去や事実を超えた世界を創出した。現状を直視したその先から始めるのが寺山だ。両者は、自己なるものを巡って、補完的な関係を結ぶ。車谷は恥じ、寺山はその先を示す。
もっとも、実は寺山にも唯一、私詩と呼ぶべき作品がある。『思いださないで』収録の「木の匙(さじ)」である。「木の匙」は、1964年初出当時、結婚したばかりだった寺山の生活感情が率直に反映された詩群だが、この詩の単行本収録にあたって寺山は、周到にその痕跡を消している。いかに自己語りを抑制したかが却(かえ)って分かる(これに曲をつけた中田喜直のレコードで、改訂前の原型が読める)。寺山は家庭を、砦(とりで)に囲まれた至福の王国、円環的なモノローグの世界と見做(みな)している。車谷の妻、高橋順子の詩集『時の雨』(青土社、品切れ)には、同様に彼女自身の新婚生活が記されている。物書きという「虎」同士の夫婦生活が「何のための円環か閉じようとしていた」とき、「狂気が男を襲」う。見えない汚れの付いた手を偏執的に洗う男(=車谷)を見る女のモノローグは、「木の匙」への返詩としても読め、興味深い。
自己肯定の仕方
いま、他人への粗雑な悪口が情報の網目の上を跋扈(ばっこ)する。言葉の匕首(あいくち)を立てるなら、まずは自分の喉元(のどもと)に。自分を恥じる誠実は車谷から学べる。しかし恥じるばかりでは前に進めない。恥ずべき自分の肯定の仕方を、寺山は教えてくれる。相手の匕首が届く距離で堂々批判する誠実も、また。人間は弱い。聖人たちの言葉は、「なぜ今」を超えて常に、社会に渇望される。寺山没後40年は、彼らを「思いださない」ための方便に過ぎない。=朝日新聞2023年8月12日掲載