「大好きな」ではなく、「大好きだった」
過去形であることに、強い意図を感じた。いつか好きだったもの。今はそうでもないもの。あるいは、そうでないかもしれないもの。
このコラム執筆の依頼を頂いてから、19年の短い人生の間で頭の中に散らかしてきた、たくさんの記憶箱を片端からひっくり返した。そうしていく中で、自分がかつて好きで仕方なかったものについての記憶が、虫食いにやられたように、穴だらけになってしまっていることに気付いた。「好き」を同じ熱量で維持するのは、思っているよりも難しい。年々大きくなっていたはずの両掌から、どれだけの「好き」を落としてきたのだろう。何十回でも見られると信じていたお気に入りのドラマだって、映画だって、アニメだって、多分、たった数回しか見ていない。
『マルモのおきて』『おんな城主 直虎』『アイカツ!』『半分、青い。』そして、『アナと雪の女王』
何十回も見ると決めて、数度(あるいは一度)しか繰り返していない作品を挙げ始めたらキリがない。改めて見たいとふと思っても、今更感が強く、重い腰は上がらない。それでも私は、これらの作品が大好きだった。そのことは確かに覚えている。
きっと、作品そのものではなく、その作品に付随する思い出を愛しているのだと、『アナと雪の女王』が流行った時期を思い出しながら強く思う。
私の映画館デビューは、『アナと雪の女王』だった。母と姉と3人で見た。初めての映画だったから、大きなスクリーンに圧倒された。まだ日中に眠くなるという現象を知らなかったから、映画の途中で母が寝てしまって、そんな勿体ないことがあるのかとたいそう驚いた。怪物に襲われるシーンが怖くて、目を瞑って背を向けたら姉が手を繋いでくれた。後からその姉に、うるさかったと怒られた。お盆に祖父母の家で、DVDを従妹と見た。作中の楽曲を歌って踊った。小学校でも、朝の歌に選ばれていた。
楽しかった。あの映画を思い出すと、映画そのものの中身よりずっと鮮明に、そんな思い出が先行して蘇る。いくつもの「何十回でも見たかった作品」の中で、きっと一番、作品を思い出すと同時に頭に浮かぶ幸せの総量が大きい。作品の良し悪しだとか、ストーリーの好みとか、そんなこと以上に、まつわる楽しい思い出が多く存在しているから、私はこの作品が大好きだった。
小さい頃、テレビや漫画にあまり触れていなかったせいで、級友らの話についていけず寂しい思いをした。自分の目の前に、薄くて細い線が途切れることなく、次々に引かれていくような孤独。何本もの線は、蜘蛛の糸のように私を雁字搦めにした。昨日のバラエティー番組の話が盛り上がっていても、分からない。流行りのギャグの下手くそな物真似を見ても、元ネタを知らない。有名なアニメの主題歌を聞いたことがない。
でも、『アナと雪の女王』は違った。映画を見た。内容を知っていた。歌と踊りまで分かるのだ。『アナと雪の女王』が流行っている時期、私が見た世界の彩度は上がった。話が分かる。キャラクターが分かる。出回っているグッズが分かる。
視界が明るかった。息苦しさが減った気がした。
好きだった作品を好きでい続けることは難しい。当たり前に、いつかは細かな内容を忘れゆくだろう。でもそこには思い出という名の面影があって、その思い出がいいものならば、私は自信をもって、大好きだったという旗を掲げたい。
その思い出さえ、いつか忘れていくとしても。