最後のページは、ゆっくりとめくった。本を閉じ、静かに目を瞑る。そっと息を吐いた。
そんな演技染みた行動さえ取りたくなるくらいに、小説に衝撃を受けたのは初めてのことだったかもしれない。胸が震えた、というありきたりな感動ではなく、心臓がひくついているのを感じた。冷や汗が流れてもおかしくはなかった。
みんなで話し合って、ぶつかって、理解し合って、助け合って生きていきましょう。
その努力がないままに、壁を作ること、タブー扱いすることが一番いけません。
最先端を行くかのように、革新的であるようかのように、その価値観は今、SNSを初めとする各方面で、声高に叫ばれている。当然の正しさを孕んでいると言わんばかりのその勢いは、それに反する考えを持つ者を「時代にそぐわない、閉鎖的な思考の持ち主であり、人としての道徳を備えていない」と糾弾する。
けど。だけれども。
なぜ、全てを理解し合わなくてはならないのだろう。
なぜ、話し合うことでジンテーゼ(総合命題/解決)を生み出そうとするのだろう。
なぜ、隠し持ちたい部分があることが、悪なのだろう。
晒し合って、開き合って、分かり合っていこうとする姿勢は、時に一方的で、過剰で、強者の傲慢なのではないか。
繋がりを与えようと、求めてもいない人にどうして善意からこうも手を差し伸べてしまうのだろう。
朝井リョウさんが書いた『正欲』を読んで、私は、それ以前持っていたなんとも明瞭にし難い感情の縺れが、ほぐれ、解き明かされたように感じた。『多様性』という聞こえのいい単語に誤魔化された違和感が、荒々しく露わになっていった。
しかしそれが、爽快だったわけではない。痛かった。誰かを刺そうと目一杯尖らせた槍を構えながら、いつの間にか、背後から同じ槍で刺されているような痛み。朝井リョウさんの小説を読んでいると、頻繁に、「自分に対して気まずい瞬間」みたいなものが生まれる。
『正欲』では、水に性的興奮を覚える女性や男子大学生、不登校の小学生を持つ父親、ルッキズムに反対する女子大生など、様々な視点をもとに物語が展開される。全体を読む読者だからこそ、登場人物が意気揚々と掲げる「正しそうな主張」の綻びがはっきりと伺える。
けれど。多数派の容認という、本来必要ないはずの許しを得、狭き門をくぐり抜けた少数派だけが生存を許されるこの世界で、書を読んでいる時ほど客観的になることは難しい。
八重子という女性は、大地に話し合おうと熱心に語り掛ける。大地は特殊性癖を持ち、自分は八重子にとって想像もつかない、理解できない存在だとその申し出を拒否し続ける。
その後日、「無敵の人」が起こした事件のニュースを見、八重子は、こういった唐突に大切な人を奪われるようなことがあった時のために、「繋がり」が大切であるという思いを強くする。その繋がりの輪に、もちろん、「無敵の人」は含まれない。そしてその無敵の人は、大地と同じく、特殊性癖の持ち主である。
私は貴方を受け止められる。そう偉そうに掲げられた両腕の無自覚さに身震いする。
そしてこんなすれ違いが、この小説では目を覆いたくなるほどに散見される。
私は何を理解できるのだろう。そしてその理解は、求められているのだろうか。
流行りの美しい言葉に縋って、取り繕ってないか。
私は私の想像できる枠の外には、何があるのだろうか。
踏み出した一歩が臆病にならざるを得ない。そしてその臆病さは、きっと必要なのだと思う。