編集者から持ちかけられたお題は「17年間逃げていた女を書きませんか」。小説家・桜木紫乃さんが新作長編「ヒロイン」(毎日新聞出版)で書いたのは、指名手配犯のセンセーショナルな逃亡劇ではない。誰にでもあり得た「自分が生きなかった人生」の物語だ。
1995年3月の東京・渋谷駅で、新興宗教団体による毒ガス散布事件が起きた。主人公の岡本啓美(ひろみ)は実行犯として無実の罪を着せられ、容姿と名前を変えて別人になりすまし、世間に紛れて暮らし始める。
現実の事件や人物を想像させるあらすじだが、その人をモデルにしたわけではない。報道記事や手記などの資料に目は通したが「かえって本当のことがわからなくなったので捨てました。虚構じゃないと、見えてこない真実もある」。
興味があったのは事件の真相ではなく、17年逃げたという事実だけ。無実の彼女はなぜ逃げ続けたのか。どこか受け身で、運命に流されるように居場所を変えていく啓美は、いくつかの出会いと別れの果てにたったひとつの「逃げたい理由」に至る。だが、逃亡の日々はやがて逮捕という形で終わりを迎える。
「読者には、捕まった彼女がどんな証言をするのか想像してほしい」と桜木さんは言う。啓美は自分の犯した「罪」とは何かと自問するが、その解釈は読者にゆだねられる。「わかりやすい懺悔(ざんげ)や反省をしてしまったら、捕まった後に大切な人を守れない。自分をだますということもあるんじゃないですかね」
「ホテルローヤル」や「家族じまい」をはじめ、家族や血縁の意味を問う作品を書き続けてきた。今作でも、啓美はバレエの指導者である母の支配を断ち切るため18歳で新興宗教に「出家」し、潜伏先の田舎町では他人の孫を名乗って疑似家族をつくる。そこで出会った中国人技能実習生との恋の結末は、戸籍制度の空虚さをあぶり出す。
家族とは「後天的なもの」だと考えている。「血縁でも大事にできなくなったら捨てていい。啓美は、見事にそれをやってのけました」
《ママ、誰もトウシューズを履いては生まれてこんのや》《啓美はやっと自分の靴を見つけたんよ。どこまでも歩ける、安い運動靴でな》
ラストシーンのこの独白を「書けてよかった」と振り返る。「自分で選んだ靴を履いて、好きな場所へ行く。そうすれば人のせいにしなくて済む。啓美のその気づきに、作者としてちゃんと応えてあげられた気がする」(田中ゑれ奈)=朝日新聞2023年9月27日掲載