自給自足の猟師・熊爪の価値観
河崎秋子の小説はいつも、命の手触りを私に感じさせてくれる。
新作『ともぐい』(新潮社)は、皮膚を切り開いて、その下にある臓物を直に掴ませるような小説だった。滴る血の流れや、早くも始まった微かな腐敗の臭いなど、すべてが生々しい。そして、容易に先を読ませないような展開の驚きにも満ちている。申し分ないほどに物語である。
舞台は北海道東部、白糠の山中だ。そこに熊爪という猟師が一人で住んでいる。猟に伴う犬を一頭飼っているが、名前はつけていない。家族はいない。住んでいる小屋はもともと養父のものだった。男が熊爪を引き取った動機はわからない。養父は彼を自分と同じような猟師として育て、老いるとどこかに消えておそらくは一人で死んでいった。熊爪は必要がなければ白糠の町には下りず、山中で自給自足の暮らしを送っている。
その熊爪が猟をして鹿を撃つ場面から物語は始まる。獣の体から放たれた血の赤を熊爪はきれいだと思う。自分たちはみな「この血を入れておく袋みたいなもの」で「袋が飯を食い、糞をひり、時々他の袋とまぐわって袋を増やしては死んでいく」のだと。こうして開幕早々に命についての本作なりの視点が視点が示される。血の袋という意味では、人も鹿も他の生き物たちもみな等価である、という考えは『ともぐい』の主題を最も端的に表現しているので、記憶の片隅に留めておくといい。
死んだ鹿を熊爪は解体する。肝臓を生のまま喰う。「鹿のぬくもりがほのかに残っている」臓物は、噛みしめると「さくりと心地よい音がしそうなほどに張りがある」。この実在感に満ちた描写は河崎作品に特有にものだ。湯気の上がる肝臓が目の前に浮かんできそうである。
鹿の肉を売るために熊爪は山を下りて人里に向かう。門矢商店の主である井之上良輔が、獲物を高額で買い取ってくれるのだ。熊爪にとって、良輔は唯一の社会との接点である。良輔は目の開かない陽子という少女を屋敷に住まわせている。この陽子が後半で重要な役回りを背負うことになる。本作の人間関係は、ほぼこの門矢商店を中心に描かれる。後の舞台はすべて山中だ。熊爪にとって自分以外の人間は、さほど関心のない雑木のような存在にすぎない。仕留めた鹿を、血の袋として同一視した山中における視線との落差が大きい。
日露戦争前夜の社会の変化映す
話が動き出すのは第三章である。山の中で一人の男と出会う。男は阿寒の猟師で、穴持たず、つまり何らかの原因で冬眠しなかった熊を追いかけてきたのだが、逆襲されて目を潰されていた。自分の銃をやるから助けてくれという男を熊爪は救う。人道的見地からではない。山中に男を残して行けば、熊に食われるだろう。人間の死体を食えば熊は味を占める。山で出くわした熊爪をも肉として見るようになる。その面倒を嫌ったのだ。わざわざ阿寒から穴持たずを追い立ててきて殺すこともできなかった男を熊爪は蔑む。
この穴持たずを熊爪は狩ることになる。となれば、人と獣との熾烈な闘いを描く小説なのか、と早合点しそうになるが、少しだけ待ってもらいたい。河崎作品にはまだ奥行きがある。いや、熊との闘いは一つの重要な柱だが、それだけで終わる小説ではないのだ。穴持たずとの闘いが不可避であることを覚悟しながら熊爪は山に戻る。しかしそこであることが起き、彼は重傷を負ってしまうのだ。それまで山中では動、人里では静というリズムで進んでいた物語に大きな変化が生じる。熊爪が動けなくなり、強制された静の時間が訪れるのだ。快復するまで安静にしなければならなくなった熊爪は、初めて落ち着いて自分自身と対峙する。
間もなく「おろしやと戦争がおっ始まる」だろうと町の人が言うところから、日露戦争前夜に時代が設定されていることがわかる。本格的な資本主義社会が到来し、農耕漁撈を主とする生き方をしてきた白糠の町にも新たな時代がやって来るだろう。背後ではちらちらと炭鉱業の話題が出ている。さまざまな産業の変遷を通じて北海道の近代を描いた連作短篇集『土に贖う』(2019年。集英社文庫)で河崎は第39回新田次郎文学賞を受賞したが、同作と同じで社会構造が変化していく時にそこで生きる人のありようはどうなるかという視点が本作にもある。前時代の精神は近代の到来によってそのままの形ではいられなくなる。白糠の町民が浮足立つ様を見ながら、熊爪も自分の未来を幻視する。
この内観の期間を経て、再び熊爪は山に入っていく。熊と対決するためだ。ここからは動。躍動する文章が、それ自体の力で物語を先へ先へと進めていく。人里に近づいたことで自らを見失いかけていた熊爪は熊と再会し、「ああ、これだ」「これは、俺があるべき場所だ」と確信する。
――引き金に指をかけ、獣の命を狩るべく銃口を向けながら、熊爪は自分の心臓が膨張し、全身に熱い血が一気に満たされていくのを感じた。正しい生き物が、正しい生き物として俺に怒り、真っすぐ殺意を向けている。きっと俺を殺すだろう。
――そして俺は、殺されるまでは抗う。
このとき熊と熊爪の関係は対称形だ。熊爪もまた、正しい生き物として殺意を熊に向けている。熊爪にとってこの闘いは『ともぐい』なのである。
熊との対決だけでなく
複層の意味が対決に重ね合わされる。熊爪が熊を同一視するのは、山の中で自らの力だけを頼りとして生き抜く者同士だからだ。熊にある猛獣の膂力は自分にはないが、その代わりに必殺の武器を所持している。そうした形で、生命と生命をぶつけ合っているのだ、という純粋化が彼の意識を支配している。同時に、自分の存在を超えた巨大なものへの意識もどこかにあるだろう。近代の声が迫りくる中で自分は元のままではいられなくなる、おそらくは山の獣もそうなるはずだと熊爪は薄々承知している。だからこれは、彼にとっての最後の闘いなのだ。一方読者は、二人の存在を抽象化し、生命がぶつかり合うということの意味を知ろうとするだろう。闘いが終わったときに熊爪に訪れる放心は、命ある者が他の命を奪うという重大事が行われたことへの畏怖の表明でもある。
背景に北海道の近代化という大きな変化を置き、前に巨大な力の衝突という単純化された出来事を描いた。『ともぐい』を読む者は、その間を往復しながら、生物が持つ命の重さや、個の存在を縛る世界のありように思いを馳せることになる。熊爪という主人公自体は単純だ。生きて、殺し、奪い、また生きる。それだけ。行動を追いながら、読者の方が彼の残す軌跡に意味を見いだしたくなるのである。そういう小説だ。
ここまで触れなかったが、失われる命があれば新しく生まれる命もある。実は熊爪と『ともぐい』をする者が他にもある。彼が思いもしなかった形でその闘争は起きるのだ。熊と熊爪という二項対立に見えていたものがそれによって立体化され、より大きな視点で捉え直されることになる。熊爪が、自らの生命を保つ以外に何の関心もない、孤立した人間として描かれていることの意味も終盤になってようやく判明する。欠落していたように見えていた部品がそこで嵌めこまれ、『ともぐい』は小説として完成する。生きるということは他の命を食らうという『ともぐい』を繰り返すことでもある。その真理を見極め、しかも緊迫した対決図式にはめこんで河崎は本作を書き上げた。物語として完璧と言うべきだろう。