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「鬼の筆」 才と俗 激しく交錯した生涯 朝日新聞書評から

評者: 稲泉連 / 朝⽇新聞掲載:2024年01月13日
鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折 著者:春日 太一 出版社:文藝春秋 ジャンル:伝記

ISBN: 9784163917009
発売⽇: 2023/11/27
サイズ: 20cm/476p

「鬼の筆」 春日太一

 巨匠・黒澤明は自身の作品の脚本を手掛けた橋本忍に、「お前は原稿用紙のマス目を使ってサイコロを振っている。『映画の賭博者』だ!」と語ったことがあるという。『七人の侍』『砂の器』『八甲田山』……。日本映画史に燦然(さんぜん)と輝く数々の作品に向かうとき、橋本は〈やってみないと分からない〉という姿勢を貫いてきた、と著者は書く。黒澤は表現者であり映画界のギャンブラーでもあったそんな橋本を、「賭博者」と評したのだった。
 本書はこの「戦後最大の脚本家」の波乱に満ちた生涯を、膨大な取材・調査によって描き出した圧巻のノンフィクションである。
 1918年生まれの橋本は軍役に就いた二十歳の頃、結核と診断される。余命2年と医師に告げられるが、その後、伊丹万作に師事してシナリオを書き始め、デビュー作で黒澤の『羅生門』の脚本を担当する。著者は生前の本人への魅力的なインタビューや関係者への取材、未公開の創作ノートなど数多(あまた)の資料を縦横無尽に読み解き、当事者が異なる証言を残す各作品の鵺(ぬえ)のような真実を、「藪(やぶ)の中」さながらに解き明かしていく。
 そのなかで一貫して見つめられているのが、橋本忍が何を描いてきたか、というテーマだ。カギとなるのが「鬼」。〈人間が時間をかけて積み重ねてきたものを、自分たちではどうにもならない圧倒的な力が無慈悲に打ち崩していく〉。そんな鬼の所業に理不尽に踏みつけられる人間の物語を、なぜ橋本は描き続けたのか――と。
 美しい妻を持つ武士が盗賊に殺される『羅生門』、戦後の軍事法廷で死刑になる男を描く『私は貝になりたい』、そして、松本清張作品を原作とした『砂の器』や『ゼロの焦点』。〈生血〉を啜(すす)るように原作の本質を見抜き、そこから全く新たなシナリオを生み出す〈腕力〉のなんと凄(すさ)まじいことか。映画を当てることにこだわり抜いた独立プロダクションの経営者としての横顔からも、そのスケールの大きさをまざまざと感じた。
 賭博者のように作品と向き合った橋本は、怪作『幻の湖』で大きな挫折をする。だが、才能と俗なるものが激しく交錯し続けた生涯の終わりまで、彼は「作家」であり続けようとした。その知られざる晩年の姿を描く著者の眼差(まなざ)しに、胸を深く抉(えぐ)られるものがあった。
 本書の取材・執筆には12年の歳月がかけられたという。日本映画史上の巨人に真っ向から取り組み、その全貌(ぜんぼう)を描き切ろうとした著者の思いが心に熱く響く一冊だ。
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かすが・たいち 1977年生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大大学院博士後期課程修了(芸術学)。『天才 勝新太郎』『時代劇は死なず! 完全版』『あかんやつら』『時代劇入門』など。