井戸川射子(いこ)さんの芥川賞受賞後第一作「共に明るい」(講談社)は、偶然の出会いに光を当てた短編集だ。バスにたまたま居合わせた人、付き合い始めの恋人、派遣バイト先でいっしょに作業をするメンバー。少し前まで赤の他人だったけれど、言葉を交わし、輪郭が浮かび上がる。「人が触れ合ったときに生まれる、輝く瞬間を描きたかった」と井戸川さんは話す。
芥川賞を受賞した「この世の喜びよ」では、主人公を「あなた」と呼ぶ二人称の視点で書いた。今作の表題作「共に明るい」は主語に「誰か」が使われる。性別も人数も不詳のまま、「誰かは思った」とつづる。「映画や演劇では『誰か』という主語は難しいけれど、小説にはできる。小説だけにできることをしてみたい。自分にとって新しいことをしたいと思って書き始めています」
収録作「野鳥園」では、初めて出会った2人の会話が続く。会話の内容から次第に、幼い子供がいる女性と少年が話しているとわかる。高校の修学旅行を題材にした「風雨」は、生徒と教師の心情や見聞きした情景が混じり合う。いま読んでいるのは誰の視点なのか、「彼」とは誰だったか、わからなくなってくる。
同時に、それでいいのだと思える。誰かがそこにいて、心を動かし、生きている。そのことがわかれば十分ではないか、その空気にただ身を委ねればいいのだ、と文章が伝えてくる。「誰が何を言っていてもいい。どっちのセリフでもいいなと思って書いています。だから、どっちでもいいやと思ってもらえるのがうれしいですね」
詩人としてデビューし、小説、エッセーも手がけるようになった。詩を書き始めたとき、自由だと気づいた。「書くときには何にでもなれるから、初めての詩は少年の一人称で書きました。どんなことも書いてみたい」
常にメモ帳を一冊持ち歩き、思いついたことを書き留めている。そこから「この言葉は詩に入れよう、これは小説に、エッセーに」と振り分けていく。「メモ帳に書いているときがいちばん楽しいんですけど、字も汚くて見返せない。自分で見返せるように、詩や小説にしています。忘れっぽいので、書くことで忘れても大丈夫だと安心できる」
趣味も読書だ。「他の人から影響を受けたい。私がどんどん変わっていかなきゃ、書くものも変わっていかない」(田中瞳子)=朝日新聞2024年1月17日掲載