「えー、例によりまして一生懸命のお喋りでございます、おもしろいところがございましたらどうぞご遠慮なく、エヘエヘエヘなんちゃなこといって笑っていただこうという、それだけのことでございます」
……と文字に起こしてみると味気ないものになってしまう。しかし人懐っこい笑顔とあの特徴的な声で言われると、途端にユーモラスな空気が漂い、聴衆は「一生懸命のお喋り」の世界に引きこまれていく。
高座での出だしひとつとってもそういう魅力が、桂枝雀という落語家にはあった(正確には二代目桂枝雀)。
私の父は枝雀のファンで、家にカセットテープ、CD、DVDが揃っていた。父のコレクションで落語に興味を持ち、枝雀を知ったのは小学生のころだったか。後に「枝雀は最初に聴く落語家やないな」と配偶者に言われたが、枝雀のものしかなかったのだからいわば必然の出会いだったのだ。
とはいえ残念ながら実際に枝雀の落語を聴いたことはない。幼い私は家で楽しむだけでも満足していたのだが、今思うと一度でも公演で聴けていたらと悔やむばかりである。
「愛宕山」「高津の富」などもよく聴いたが、いちばん好きなのは「三十石夢の通い路」だった。お伊勢参りについてよく知らない私でも、当時の人々にとってはお伊勢参りが時間も手間もかかる、一生に一度あるかないかの旅だったことくらいは分かった。
「三十石夢の通い路」では帰り道にあたる部分、京都での土産選びと大阪(大坂)への船旅が主に語られている。私は枝雀の語り口を通して、帰り道でもまだ冷めやらぬ旅の非日常感を味わい、登場人物たちと一緒にお伊勢参りから帰っているような気持ちがした。
枝雀の落語は一見オーバーアクションなようで、よくよく観てみるといつでも大ぶりなアクションをしているわけではない。「三十石 夢の通い路」(1995年・国立劇場)の最後の場面、夕暮れから夜にかけての描写――「西の空を真っ赤に染めておりました太陽が沈みます。一番星二番星三番星……。空が暗くなりますにつれまして、追々と増えます星の数。見上げますというと、ああそこはもういつの間にやら、今にも降ってきそうな満天の星尽くしでございます」――での動きは最小限に、それでいて最大限の効果を生み出し、観客を旅の終わりへと静かに導き、心地良い余韻を残す。
実は高校生となった私が小説を書こうと決めたときに、落語が念頭にあった。落語に使われる小道具はごく少なく、扇子と手ぬぐい、上方落語ではここに小拍子、見台と膝隠しが加わる。これらの小道具、特に扇子と手ぬぐいがときに箸となり、煙管となり、金となる。鳴り物が入る噺もあるが、ミニマムな数の小道具と噺家の手腕で観客の想像を喚起させ、まるで物語の世界にいるかのような気分にさせる。当時私はミュージカルなどの、豪華絢爛な舞台装置と衣裳、照明・音響効果を駆使したものも好きだったが、一方で幼いころに枝雀落語を聴いてからというもの、「最小限のもので最大の効果を」という、ミニマムな媒体を好む気持ちが根っこにあった。
小説を書こうと思い立ったとき、「そうだ、小説だってパソコンひとつ、何ならペンと紙だけで読者の想像力をかき立てる物語を作れるじゃないか。落語があの少ない小道具で観客に様々な場面を想像させるように!」と考えた。そのときの興奮は今でもよく覚えている(小説を書くには膨大な資料と取材が必要なこと、そして小説も落語も、プロとして作品や芸を表に出すためには多くの人の尽力が不可欠なことを知ったのはずっと後の話であったが……)。
「文字で読者にその場の空気を感じさせ、『見ているかのよう』な感覚を伝える」という私の目指すものの根底には、幼いころに慣れ親しんだ落語がある。それだけに枝雀の死は私にとって衝撃であったし、今この原稿を書いているときにも「ああ、やっぱり一度でもその場で聴いてみたかった」と惜しい気持ちが込み上げてくる。とはいえ、そんな悲しい気持ちで枝雀の落語に接するのは失礼にあたるというものだろう。私はただ、いち枝雀ファンとして、幼いころと同じように「遠慮なく、エヘエヘエヘなんちゃなこといって笑って」落語を楽しむだけである。