1. HOME
  2. コラム
  3. 文芸時評
  4. 真の“読書”の豊かさ 新しい「視野」で境界越える 古川日出男〈朝日新聞文芸時評24年2月〉

真の“読書”の豊かさ 新しい「視野」で境界越える 古川日出男〈朝日新聞文芸時評24年2月〉

絵・黒田潔

 作者が小説を作っているわけだが“読書”自体は読者が作っている。ある作品を読んでいたら、ヨーロッパの街にて展開しているシーン内で「デッドポエッツソサイエティ」という映画の題名にぶつかった。その途端、自分の頭は「いまを生きる」という日本語を弾(はじ)き出した。本当にバチンと弾き出したのだ。理由は明快で、三十数年前にそのアメリカ映画が日本で劇場公開された際、いまを生きる、というフレーズが邦題に選ばれていたのだった。かつ、その洋画は三十数年前に制作されたのだけれども、映画内のストーリーは一九五九年を舞台にしていた。つまり公開時から(物語の設定は)三十年ほど遡(さかのぼ)っている。そうやって二段階で隔たるかのごとき歳月の流れに自分が接触したのがわかり、また小説内に現れた映画の原題(英語題名)から邦題に跳んだのもわかり、そして読者である自分の側のこうした二重の跳躍をさほど作者の側は意図していなかったかもしれないと推し量る時に、真の“読書”の豊かさはどこにあるのかと考えはじめる。

 その「デッドポエッツソサイエティ」の一語が登場したのは江國香織『川のある街』(朝日新聞出版)で、ここには三篇(さんぺん)の物語が収録されている。小説には人生の始まりのほう(とは子供時代だ)に身を寄せて書くスタイルと、人生の終わりのほう(とは死に接する時期だ)に近づくように進めるスタイルと二種類があると評者の自分は愚考している。そして『川のある街』内の三篇は、最初と最後の一篇ずつでこれら二種を押さえている。かつ、第一篇は子供が主役なのだけれど、子供というのは「大人よりも低身長である」との定義をしっかりと踏まえて、作者はこのドラマを“地面”に近づけて書いている。すると、これに対比されるのは“地面”から遠ざかる視点の導入となるわけで、第二篇には人間たちと同時に翼を持ったカラスたちも登場して、読者に新しい「視野」を提供する。これはほとんど驚異的な小説作品である。自分は陶酔した。

      ◇

 子供の視点の徹底、が胸を揺さぶるような力を発揮していたのは小池水音「あのころの僕は」(「すばる」三月号)でこれは五歳で母親を失った“僕”の見ている世界を、十年後の同じ“僕”が語っている。当然ながら高校一年生にとって五歳、六歳の幼稚園時代は「この世に生まれた直後」の時期にも等しいほどに遠い。その遠い記憶をトレース可能なのは、たとえば母方の祖母のアシストがあるからであり、かつ、純粋な“愛”の記憶があるからである。その“愛”とは誰かと同類だ、誰かと同一なのだと欲する感情の謂(いい)でもある。そして主人公は歳月を飛躍して過去に旅するのと同時に、幼児期にその“愛”の対象とともに遊んだゲームという異世界にもまた戻る。ここには二つめの時空間の跳躍がある。

 だがゲームを通さずとも、人は時にどんどんと魅惑的な異世界にトリップ、というかスリップ可能であると示すのがジョン・アーヴィングの「ペンション・グリルパルツァー」(柴田元幸訳、「MONKEY」三十二号)で、ただ一泊の不思議な宿への滞在が夢と現実の境界を、動物(とはサーカスの熊である)と人間の境界を、そして長篇小説と短篇小説の境界を越えさせるし滑らせる。この無類の面白さは唸(うな)るしかない。

 そして真に境界に接した人間たちのドラマはマルコ・バルツァーノ『この村にとどまる』(関口英子訳、新潮社)に描かれている。そこにあるのは国境であり、その土地でもともと話されているドイツ語と“ファシスト”国家から使用を強制されたイタリア語という二つの言語、その境界である。そして美しい土地がダム湖に沈む時、読者は地面と水面の境界のその“ズレ”を想(おも)うだろう。主人公の女性のその「語る姿勢」というか、背筋を伸ばした体勢まで目に見えるようで、この語り手の魅力がなにしろ抜きん出ている。

      ◇

 松永K三蔵の「バリ山行(さんこう)」(「群像」三月号)は、社内の登山サークルに誘われた語り手の物語がゆるゆると描かれている……と思いきや、いわゆる登山路を通らない「バリエーション(バリ)路」を実践する同僚との出会いから、まさに物語が破線(一般登山路ではない経路)をゆく。その主題は、どうやったらこの瞬間を生きていることを実感できるか、すなわち「いまを生きる」にはどうしたらよいか、である。その現在の感覚がたしかに言葉で描かれる中盤に、読みながら目を瞠(みは)らされた。=朝日新聞2024年2月23日掲載