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鴻巣友季子の文学潮流(第11回) 水と時間の流れを描く「ここにとどまる」物語

©GettyImages

ファシズムとナチズムの支配を受けた村が舞台

 水は人間が生きていくうえで欠かせない。能登の被災地ではいまも続く断水が生活を脅かす最大の問題の一つだ。水辺には人びと暮らしが築かれ、過去が堆積し、未来がほの見える。湖畔、河岸、海辺。水と時間の流れを描く3作を紹介したい。

 マルコ・バルツァーノ『この村にとどまる』(関口英子訳、新潮社)は、南チロルに実在しファシズムとナチズムの支配を連続して受けたヨーロッパ唯一の小さな村の物語である。原題はResto Qui(ここにとどまる)。

 3年ほど前、このクロン村のレジア湖(貯水湖)の補修工事が行われ、水が一時的に抜かれると、14世紀建立の教会の鐘楼が姿を現し話題になったことは、ご記憶にあるかもしれない。そう、ここには何世代にもわたる農畜生活があったのだ。それが1950年のダム建設で水の中に没した。

 本作の語り手はトリーナという元ドイツ語教師の女性だ。晩年の彼女が人生を振り返り、生き別れになった娘マリカに語りかける手紙の形で綴られていく。

 物語の始まりは1923年。ヨーロッパ全土に人種差別とヘイトが渦巻き、戦いの火花が散りはじめていた頃だ。バルツァーノ県クロン村はそんな大陸のイタリアとオーストリアとスイスの国境近くの谷間に位置する。現在はイタリアに属するが、もとはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、ドイツ語を話す人たちが住んでいた。1919年のサン・ジェルマン条約でイタリアに割譲されることになったのだ。

 本作が幕開けする前年、ムッソリーニのファシストがバルツァーノ県に進軍し、ドイツ語禁止の布告が出されると、墓碑までがドイツ語からイタリア語に書き換えられ、人びとの名はイタリア風に改名された。新たな行政府はイタリアのヴェネト地方の農村やシチリア島から来た「読み書きもあやふやな者たち」を教師として採用。ムッソリーニによる強硬な「イタリア化言語政策」だ。トリーナは場所を変えながらこっそり教職を続ける。

 支配者はつねに言葉の覇権を握ろうとする。そうすることで人びとの思考と意思の疎通を阻害し、あらゆる記録を抹消し、文化文明の継承を絶とうとするのだ。これを「メモリサイド」(記録・記憶の抹殺)などと呼ぶ。現在、ガザ地区でパレスチナ人の生活と文化と歴史に対して行われていることの一つだ。

 しかし1939年夏、ヒトラーが介入してくる。「偉大なる選択」を迫られた村の人びとは「ライヒ」(ドイツ国)に移住する者と、村に残る者とに分かれて、共同体は分断され、トリーナの家族も引き裂かれることになった。

見たいものしか見ないと

 独伊という大国に挟まれた村のメモリサイドは戦争によるものだけではない。第2次大戦が終戦すると、棚上げされていたイタリアの化学企業によるダム建設計画が本格的に再開し、「帽子を目深に被った男」たちがやってくる。ここで作者は人間の抱える厄介な邪鬼を描きだす。

 それは脅威や危険を見て見ぬふりをする自分の心だ。村の人びとは水力発電計画を知りつつ、しかし見たいものしか見ない。都合のいい噂ばかり信じる。帽子を目深に被った男のこれまでの仕事ぶりが簡潔に説明される。

「彼は、民衆というものを知りつくしていました。どこ国でもおなじで、人々はただ平穏な毎日を欲してしる。だから、目に見えさえしなければ、それで構わない。そうやって彼は、各地の村々から住民を退去させ、地区を空にし、家々を打ち壊しては、野や畑にコンクリートを流し込み、〈中略〉工事が滞ることはありませんでした。運命に身を委ねる怠惰、神への絶対的な信仰心、事なかれ主義の無関心がはびこっているところでは、問題なく前に進むのですから」

 一語一句がぐさぐさと突き刺さってくる。
 それでも、一部の村人はあらゆる方法でダム建設を止めようとし、家畜たちが水に浮かぶようになるまでこの村にとどまった。現在、この湖水地を訪れる観光客は水面に突きだした鐘楼にいっとき目を奪われるが、すぐさま水の下にあるもののことは忘れてしまう。それが、記憶と記録の抹殺なのである。

流れているのにおなじ場所にとどまり続ける川

 江國香織『川のある街』(朝日新聞出版)は川のほとりに住む人たちを描いた3部の作品集だ。水に向ける視線にそれぞれの生き方が如実に表れる。第1編であり表題作は、小学生の女の子の視点から語られ、最終編は80代とおぼしき老女の目を通して語られ、この2編が見事に響きあう。

 小学生の多々良望子は、両親が離婚し、母親の実家近くのマンションに引っ越してきた。近所には、アマチュア劇団員の大叔母や、祖父母も住んでいる。川は望子の生活になくてはならないもの。親友の美津喜と川原でアナログなゲームに興じ、いまも父親とは定期的に会って川べりを歩く。

 マンションの近くには、大きな川とそれより小さな川が2本流れている。幼い彼女はこんなことを思う。

 こうして眺める川は――雨の多さで水量は変るにしても――つねにおなじ姿に見えるのに、いま見ている水とさっき見た水は違う水なのだ。こうして望子が見守っているあいだにも、川の中身は入れかわり続けている。〈中略〉流れているのにおなじ場所にとどまり続ける川の感じは想像ができない。

 とはいえ、人間にもこれと似たところがあるだろう。中身は変わり続け、流れているのに、自分をどこかに据えていると考えている。自分の中にはおいそれと変わらぬ”内部”があり(それをアイデンティティなどと呼ぶ)、”外部”のほうが移り変わっている、という感覚。

 望子のまわりをいろいろなものが流れ過ぎていく。そのうちの一つが言葉だ。彼女のまわりには(彼女には)なんだかわからない語句が飛び交っている。

「知ってるわよ、しっぽがちぎれたキジトラでしょ?」
「まじで?」「まじで」「ブルキナファソ?」「うん、ブルキナファソ」
「え? イーナナ系北陸新幹線の十三両のやつ? それは四万じゃ買えないよ。六万ぐらいするんじゃないの?」

 それは、耳にたまたま入ってくる、意味を成す前のばらばらの音だ。幼い望子がこれから出会う世界の予兆でもある。江國作品の登場人物には強いこだわりと、ものごとをあるがままに受け入れる性向が間々同居している。その底流には、世界は自分の与り知らないところで動いていくのだという、どこか潔い諦観がしばしば感じられるのだ。

 望子は最後に、行きつけの焼き肉屋のおじさん(あるいはお兄さん)と川のそばでばったり会い、大人の年齢は自分には見当がつかない、と思う。

 最終編「川のある街Ⅲ」の主人公は日本からヨーロッパの国に移り住み、44、5年経つという元大学教師の女性芙美子。同性婚の相手希子は10年ほど前に亡くなり、仲良くしていた元恋人とその妻も他界し、いまは運河の張り巡らされた街での独り暮らしだ。

 もの忘れがだいぶある。そんな彼女を心配した日本の弟夫婦が娘の澪を送りこんでくるが、彼女が姪であることすら芙美子は時々わからなくなっている。望子の言葉がいまだ形をなさないものであるなら、芙美子の言葉や記憶は定形を失いつつある段階にある。その喪失の過程を描く作者の筆致はいつもながら端整で、甘美で、少し残酷だ。体はもはや悦びをもたらすものではなく、いっそ「肉体を持っていない気持ち」になって歩きたいと芙美子は思う。

 しかし、いまも芙美子は夜の街を自由に歩く喜びと尊厳を享受している。それが昼の喜びと違うのは、「風景が濡れたように色を濃くしているからでもあり、川の匂いが強くなるからでもあった。それに、夜は昼より記憶が甦りやすい」からだと(という素敵なことを思った直後に街頭で迷子になってしまうのだが……)。

 芙美子は日本への帰国をうながす弟夫婦と澪の頼みを頑としてはねつけ、今日もここにとどまる。今日もそこにいない希子に話しかけながら、自分で作った(はずの)肉じゃがを食べる。澪のような若い人の年齢は、自分にはもはやさっぱり見当がつかないと思いつつ。

あえて辺境の言葉を選ぶ

 昨年ノーベル文学賞を受けたノルウェイの詩人・小説家・劇作家ヨン・フォッセ初の邦訳書『だれか、来る』(河合純枝訳、白水社)は、名前のない戯曲だ。どこかの海辺の家に引っ越してきた男女。男は50代、女は30歳前後。ふたりの仲を裂こうとする「他の奴ら」から逃れ、このフィヨルドに臨む朽ちた古家を買って移り住んだ。

 ふたりはただ「彼」と「彼女」と呼ばれる。そこは「波また波/そして それから海/遠く向こうに見渡す限り/見えるのは 海だけ」という場所だ。ところが、ふたりの間に侵入してくる人物がいる。この家を祖母から相続しふたりに高い値で売った男であり、彼はただ「男」と称される。

「男」は「彼女」にまとわりつき、若くない「彼」は嫉妬を覚える。「男」は現れてはいなくなり、またふらりとやってくる。ふたりの仲は壊れかける。「男」は言う。「おれは 分かっていた/だれか 来ると」「あそこの下は海 波また波/海/白くそして黒く/波また波/そのやわらかな黒い深遠」

 それでも、ふたりはこの朽ちかけた海辺の家にとどまる。目の前の水際が生と死を分ける一線であるかのように。

 原文には句読点が一切ないという。言葉は個別性を失い、どこかぎごちない。その不自然さは、フォッセがノルウェイの多数派言語「ボクモール」ではなく、あえて言語人口10パーセントの「ニーノシュク」という西海岸の書き言葉で創作しているからでもあるだろう。

 ボクモ―ルは1814年までノルウェイを占領していたデンマークの言語を土台にしており、ニーノシュクは西海岸僻地の独特で多様な方言を収集して作られた言語だ。「辺境の言葉、農民や労働者の言語」とみなされがちだったが、フォッセは平凡な人びとの暮らしをあるがままに描くのに、この言語を選んだ。

 舞台で台詞としてしゃべるには難しさがあるというが、この不自然さ、ぎごちなさには、この国とある地域がたどってきた歴史が刻印されている。このマイナー言語にとどまることには意味があるのだ。

 今回の河合訳はドイツ語からの翻訳であり、寄せては返す波のような終りのない反復とそのリズムを再現するのに苦心したそうだ。フォッセ作品は英訳(作者との共同訳)も高評価だが、語順に縛られる英語と比して、ドイツ語と日本語は語順の自由さが有利に働いているようだ。