感染対策による神事の中止が、異変を招く
――『春のたましい 神祓いの記』は日本各地で暴れ出した八百万の神々を、〈祭祀保安協会〉に属する主人公が鎮めていく姿を描くエンターテインメント作品です。まずは構想のきっかけを教えていただけますか。
1話目の依頼を受けたのは2020年で、ちょうどコロナが大騒ぎになっていた頃でした。全国でイベントは軒並み中止、人が集まるなんてけしからんという時期でしたが、そんな折、コロナ対策のために疫病よけの神事を中止するというニュースを目にして、「さすがにそれは神さまもぐれるだろう」と思ったんです(笑)。そこから、祀られなくなった神が異変を起こすというアイデアが浮かんできて、それを人知れず処理する役人がいたら面白いんじゃないか、と繋がっていきました。
――長年各地で守り伝えられてきたお祭りが、感染対策を理由に中止されたことで、神と人のバランスが崩れてしまう。まさにコロナ時代ならではの怪奇幻想譚ですよね。
作中では“ワクチンみたいなもの”という喩えを使っていますが、お祭りというのは神と呼ばれる存在を崇め、敬って、鎮めるために行うもの。それが途絶えたら、神さまの方だって暴れたくなるんじゃないですか。まあ実際には、そこまで考えて祭りに参加している人はいないですけどね。生活に根ざしているから続ける、お囃子を聞くと心が浮き立つから参加する。それでいいのだと思います。「祭りの意味とは?」と考え始めると、合理性があるのか、コスパはいいのかという話になってしまいそうですし。年に一度のお祭りが、神と人とのコミュニケーションになっている、ということがなんとなく伝わればいいかなと思っていました。
――『春のたましい』は2021年から23年まで雑誌「小説宝石」に掲載された4話に、書き下ろしを加えて書籍化されました。この間、コロナをめぐる状況も大きく変化しました。
当初のパニック状態が落ち着いた後は、他者を攻撃する風潮が強まったり、お互い疑心暗鬼を抱いたり、いろいろな様相が浮かび上がってきましたよね。それも無理のない形で、物語に取り込みたいと思っていました。このシリーズは、祀られなくなった土着の神がウルトラ怪獣のように暴れ回る、という素朴な発想が出発点で、コロナ小説を書こうと思ったわけではないんですが、今の人類が初めて体験した世界的パンデミックのあれこれを、フィクションとして記録したいという気持ちもあったんです。
人の暮らしは、合理性だけでは割り切れない
――主人公・九重十一(ここのえ・とい)とアシスタントの八多岬(やた・みさき)は、文化庁の外郭団体〈祭祀保安協会〉の職員として各地を訪ね、荒ぶる神々を鎮めていきます。お祭りを守るために活動する、神出鬼没のヒーローです。
僕は大学卒業後、作家になるまで映像関係の仕事に就いていたんですが、最初に関わったのが山形県内のお祭りや伝統芸能を撮影して、アーカイブ化するというプロジェクト。その当時から、高齢化による担い手不足によって、伝統的なお祭りがいつ途絶えてもおかしくないと言われていました。それでも今はなんとか持ちこたえていますが、そろそろ時間の問題かもしれない。九重十一のような使命を持った公務員が、どこかで守ってくれたら嬉しいんですけどね。
――全身黒ずくめでクールな性格の十一と、まるでホストのようないでたちと言動の岬。対称的な2人のバディものとしても楽しめます。
初登場時の十一は人間のようであり、神の使いのようでもある、そんなミステリアスな存在として描いていました。シリーズを書き継ぐにつれて、彼女の抱えている葛藤が自然と見えてきましたね。十一だけだと物語が淡々としすぎるし、お役所の人が単独行動することもあまりない気がしたので、チャラいお兄ちゃんとコンビを組んでもらうことにしました。
――廃校での怪異を扱った「春と殺し屋と七不思議」に続いて、第2話「われはうみのこ」では日本海沿岸の港町での異変が描かれます。感染拡大に怯える人びとの心理が、事件に影を落としています。
パンデミックの初期の頃、東北地方では自分たちがうつす恐怖より、得体の知れないものが県外から持ち込まれることに対する恐怖感の方が強かったんです。未知のウイルスに怯えて、共同体ごとに謎の独自ルールが作られていく。それって僕らがふだん怪談で扱っている、呪いや祟りのシステムとも似ているなという気がしました。誰かを糾弾するつもりはまったくないですが、あの時代にはこういうこともあったよね、という事実を書き残しておくことは、それなりに大事なのかなとも思います。
――第3話「あそべやあそべ、ゆきわらし」では雪深い限界集落で古い屋敷を守り続ける老人・鉄吉のもとに、十一と岬がやってきます。ここでは過疎の問題がクローズアップされていますね。
なんでわざわざ不便な田舎に住むんだ、そんな非合理的な生活をやめて、都会に移住すればいいのにという意見がありますよね。先の能登半島地震の時も、そういう声があがりました。でも合理性だけですべてが割り切れるものなんでしょうか。過剰な故郷礼賛はどうかと思いますが、故郷とアイデンティティが直結しているなら、そこに住むことが正解でいいと僕は思いますし、そうやって暮らし続けてきた人たちが守り続けてきたものに、愛おしさを感じます。この話に出てくる青菜(せいさい)漬けも寒ざらし蕎麦も、実在する山形の名産品なんですよ。
――オシラサマ、座敷わらしなど、東北の伝承・民間信仰も取り入れられていますね。
東北を舞台にしようと思って書き始めたわけではないんですが、自分がよく知っているのが東北ですから。習俗のあり方、見えないものとの距離感を肌で理解しているので、一番書きやすい舞台ではありますね。大学時代に感動したことがあって、ゼミの打ち上げに同級生の女の子が参加しないというんです。理由を聞いたら、「家の神さまをお祀りする日だから」っていう。その日は本家の全員が集まって、神さまを遊ばせないと祟りがあるそうです。こういう話が現代でも残っているのが、東北の面白いところです。
春を待ちわびる気持ちを物語にこめて
――登場する神々が、クリーチャーめいた異形の存在であるのも面白いですね。特に第4話「わたしはふしだら」に登場する〈しどら〉という巨大な神さまはインパクト抜群です。
どれもゼロから考えたものではなく、一応神話や伝承、民間信仰をもとにしてデザインしています。昔の人はオブラートに包んだ形で記録していて、実際の姿はこんな異形だった、というのを見せられたらと面白いかなと。怪獣やクリーチャー的なものが好きなので極端な姿形にしましたが、東北ならこれがいてもおかしくないよね、というぎりぎりのラインを狙ったつもりです。まあ、神さまが読んだら「こんなんじゃねえ」と怒るかもしれないですけどね(笑)。
――第5話「春のたましい」で十一は、盲目の口寄せ巫女・キヨの人生に触れることになります。ある意味、不条理で恐ろしい話ですが、それを包み込むような明るさやたくましさも感じられました。
キヨの回想は、103歳になる僕の祖母をイメージして書きました。祖母は弘前で生まれて、結婚した祖父と満州に渡ったんですが、終戦後の引き揚げの旅の途中で、3歳と5歳の子をチフスで亡くしているんです。大変な旅の途中なので火葬もできず、遺体を野ざらしにするしかなかった。命からがら日本に帰ってきた後も、生まれてきた子をネフローゼで亡くすなど、辛い経験をしているんです。僕からすると、世を怨んでもいいくらいの壮絶な人生ですが、祖母に聞くと「それほど悪い人生じゃなかった」という。それは単純な自己肯定ではないんですよ。良いことも悪いことも含めて、ぼちぼちだったと受け止めている。心底すげえな、と思います。
この作品も、キヨが復讐するという展開にした方が筋は通るんですが、あえてそうしなかったんです。色々あったけど全部ひっくるめてそれが人生だよね、というキヨの達観に、若い十一が戸惑うという展開にするべきだと思いました。
――十一による神祓いの物語は春に始まり、春で終わります。タイトルの“春”に込めた思いとは。
雪深い土地で生きていると、毎年春が本当に待ち遠しいんですよね。土の匂いがして、草木が芽ばえ始めると、また新しい命が始まるという感じがして心が躍ります。どんな年でも春は必ずやってくる。そして必ず去っていく。これはお祭りと一緒だなと書いていて気づきました。それで最後の場面は、自然と桜のシーンになりました。ここに集約する物語だったんだなと。
――最近では田舎のおどろおどろしい習俗を扱った“因習村ホラー”が人気です。『春のたましい』はそうした作品とややテイストが異なりますね。
僕自身も因習村的な話を読むのは好きですし、そういった手触りの実話怪談を書いてきた人間です。だから批判できる立場にはないんですが、あそこに植民地的な視点があるのは事実だと思います。
それをよく感じるのは、出羽三山の即身仏ですね。衆生救済のため生きたまま土中に籠もってミイラになる。現代人の感覚では理解しがたく、おどろおどろしい因習のように思えるんですが、背景を調べてみると死後も名前を残したいとか、お寺に人を呼び込みたいとか、結構生々しい人間模様があって(笑)。舞台裏を知るとまた違った面白さが見えてくるんです。ただ「因習村ホラーはいけない」というのではなく、因習村の表も裏も両方楽しんでもらえる作品にしたつもりです。
“外様”だから見えてくる山形の怪しい魅力
――山形を拠点に活動し、『山形怪談』という著作もある黒木さん。しかし同書のまえがきによると、当初はあまり山形が好きではなかったとか。
そうなんです。僕は青森県の弘前出身なんですが、弘前の人間は「自分たちは津軽の生まれだ」という妙なプライドがあるんですよね。芸術系の大学に進学して、19歳から山形で暮らし始めたんですが、舐められてはいけないと思って、髪の毛をデヴィッド・ボウイのように真っ赤に染めて、ロンドンブーツを履いて入学式に行ったら、半年間友だちが一人もできませんでした(笑)。津軽の人間はそういう悪目立ちを好むところがあるんですよ。
そんな経緯もあって、当初は山形暮らしが退屈でたまらなかったんですが、町をぶらぶらしていると妙なお祭りに出くわしたり、古い祠や鳥居を発見したりする。ここは怪しい土地なんじゃないか、怪談好きにとって油田みたいな土地なんじゃないかと気がついて、ずるずるとハマっていったという感じです。
――なるほど、弘前出身・山形在住の黒木さんだからこそ、東北のさまざまな側面を描けるのかもしれませんね。
20年以上住んでいますけど、まだまだ山形では外様という気持ちはあるんです。知り合いの爺ちゃんに、いつになったら仲間と認めてくれるんだと聞いたら、「うちの集落に墓を建てたら」と言われて、死ぬまで無理じゃないかと(笑)。でもそんな距離感だからこそ見えてくる、山形の暮らしがあるでしょうし、そのスタンスが自分の持ち味なのかなとも思っています。
――ではあらためて『春のたましい』の読みどころを。
僕の本にしては珍しく、怖いものが苦手な方にも楽しんでもらえる内容になっていると思います。一方でホラーや怪談、民俗学がお好きな方にも満足していただけるはずです。あの2020年の春から4年が経過して、コロナの時代に何があったか、僕らはもう忘れつつありますが、お互いに傷ついたし傷つけたと思うんです。そのことを神さまとの関わりを通してちょっと思い出していただければ、それはそれで意味のある作品なのかなとも思います。