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現代と前の時代と “自分たち”不変の“自分たち” 古川日出男〈朝日新聞文芸時評24年5月〉

絵・黒田潔

 自分たちは日本の伝統を見失っても現に日本人である、そう喝破したのは坂口安吾とその随筆「日本文化私観」だった。法隆寺も平等院も実はどうでもよい、法隆寺をいっそパーキングにしてしまっても自分たち日本人は日本人なのだぜと痛快に言い放った。が、安吾のこの原稿の発表は一九四二年で、そこを要点として押さえるとこうした論調は公権力に「睨(にら)まれない」とか、どこか戦時下万歳と謳(うた)っているようにも誤読可能だとか、そうした一面が見えだす。おまけに今の日本は十年来“観光立国”を志向していて、自分たちは日本人であるために観光に来てもらうしかないとも言えるから、法隆寺は絶対に戦火に焼失させられない。

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 いわゆる前の時代と現代とをどう捉えるか。安吾の文章同様の爽快さは山田詠美の短篇(たんぺん)小説「死刑待ち」(「新潮」六月号)にもあって、ここには“自分たち”という大きな括(くく)りは出ないし自国史という大上段の構え方もない。ただ、個=“私”の語りがあるだけだ。この作品内での時代の起点は一九八七年とも言えて、その年に異性間性交渉を経ての国内初のエイズによる死者が出た。この死が波紋を生じさせるのは語り手の家庭内だけだった、とも語れる。が、母親が長男(=語り手の兄)に対して「愛の化けもの」と化し、その過剰な愛情表現が何かを絞めつけつづける、そうした様相の活写は、物語る声の悪意と愛情がその“家”の外側に滲(し)み出していると直観させる。どこまで滲みたのか? たぶん「愛の化けもの」が愛国の化けものと了解できるところまで、である。世代継承とは時代の引き継ぎのことであり、その時代とは「わが国の時代」なのだ。モラルは反転し、にもかかわらず自分たちは自分たちである。

 現代から前の時代を捕捉しようとすると、それでは何が起きるか? 化けものとは対置されるであろう稀有(けう)な愛の基盤を摑(つか)みうるのだと決死の思いで訴えるのはハン・ガン『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)で、ここでは一九四八年に起きた済州島四・三事件が描かれる。その事件を自分たちは知らないとしても仕方がない、しかし知ろうとする現代の韓国の作家がいて、おまけに真に知るということは他者の声を自分に内蔵してしまうことだとこの一冊は雄弁に語る。魂の姉妹とも言える友人の声が彼女の内側に響いて、やがては認知症を患っていた友人の母親の内側に一九四八年以来の数千人の被害者たちの声があることも理解される。それらの声は繊細に、ビビッドに読み手に届けられる。というのも、たとえば済州島言葉は語尾が短い、有声音が多い等と解説されているが、この地方語を著者は、そして訳者は、ある種の協同作業として別の土地土地に根づかせようとしている。つまり、この小説では歳月を超えるということが、読者のいるそれぞれの国や土地に飛ぶ=「空間を超越する」ことでもあるのだ。

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 二つの時代を比較もせず、遡行(そこう)もしないで、延々九十年を旅しつづけるのは小林エリカ『女の子たち風船爆弾をつくる』(文芸春秋)で、前の年に東京宝塚劇場のオープンがあった一九三五年から二〇二三年までを小説は内包する。そこで描かれるのは「この街」東京であり語るのは「わたし」や「わたしたち」である少女たちであり、日本というのは「この国」であり日本人は一貫して「わたしたち」だ。ナレーターに東京宝塚劇場を案内してもらって、さまざまな挿入歌や挿入される証言に耳を傾けて、やがて理解するのは本書が「読者が組み立てる時空地図」なのだという事実だ。自分たちはいいことをしようとする。そして“いいこと”は人を殺しもして、その殺傷の現実を自分たちは知らない。

 坂崎かおるの作品集『噓(うそ)つき姫』(河出書房新社)に収録の一篇「私のつまと、私のはは」はむしろ現代に集中して“自分たち”を抉(えぐ)りきった。ARグラスを用いた擬似的な乳児の育児体験、それが同性カップル(彼女と彼女)を凄(すさ)まじい現実に落とす。ここでの現実とは“地獄”の言い換えに過ぎない。作中、死とは「初期化」に換言されてもおり、だからこそ具体的で劇烈(げきれつ)な痛みが現出する。

 堀江敏幸「貸衣装」(「新潮」六月号)は過去に集中した。自転車の防犯登録がまだ任意だった時代の日本に、確かに普遍的な“自分たち”の像はある。冒頭、卵を抱えている語り手のその触覚まで感じそうだが、この一篇もまた同じように大事に抱擁されなければならない、そう感じる。=朝日新聞2024年5月31日掲載