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絵本作家いわむらかずおさんインタビュー 戦争を子どもたちに語り継ぐ 「辛かったのは母親と会えなかったこと」

いわむらかずおさん=坂田未希子撮影

戦争体験、もっと話さないといけない

――『子どもたちへ、今こそ伝える戦争 子どもの本の作家たち19人の真実』(講談社)で、いわむらさんは「じいちゃんが子どものころ、日本は戦争をしていた」というタイトルで、お孫さんへ語るように書かれています。お孫さんへとしたのは、どのような思いからですか?

 私は今年で85歳になりました。戦争体験というと、5、6歳の頃に戦争末期、小学生時代に戦後の困難な時代を過ごしたぐらい。それも戦争体験だとは思いますが、私より年上の人で、空襲を受けて逃げたり、焼け出されたりした人たちに比べたら、たいしたことはない、私なんかが話しても驚かないかなと思っていました。でも、先輩たちがどんどん亡くなって、私なりに、幼児期の体験を話してもいいんじゃないかと思うようになりました。息子や娘が小さい頃は、戦争の話をあまりしませんでした。子どもたちもかわいいけど、孫はまた別のかわいさがあるでしょ。この子たちが戦争の悲惨な思いをしたら本当に困るし、戦争を知らないのはよくない、知ってほしい、そういう思いもあります。私の美術館の「おはなし会」でも、終戦記念日や宇都宮空襲の日、東京大空襲の日などに合わせて、子どもたちに話をするようになりました。

――聞いている子どもたちの様子はいかがですか?

 一生懸命、聞いてくれています。美術館に来る子どもたちと同じくらいの歳に、私は親と離れて1年半も疎開をして、寂しい思いをしました。戦争を身近なものとして捉えるのは難しいかもしれませんが、わかってくれるところは、わかってくれていると思います。日本は、二度と戦争はしないと憲法で誓ったのに、今は逆方向に進みつつあると感じます。私が小学1年生のとき、新しい憲法が公布されました。この憲法をアメリカから押し付けられたと考える人もいます。確かに終戦のとき、今のようなしっかりした憲法を作れる人は日本にはいなかったかもしれない。でも、民主主義や戦争放棄は、すごく理想的な考えで、当時、学校で先生や友だちとよく話し合いました。残念ながら、戦争は今も起こっています。ひどいですよね。何のためにやっているのか。軍隊は国を守るものではなく、戦争するためのものです。戦争なんかしたって、私たち国民にとって、なんのプラスにもならない。戦争体験がある人は、もっと話さなきゃいけないと思いますね。

「じいちゃんが子どものころ、日本は戦争をしていた」(『子どもたちへ、今こそ伝える戦争 子どもの本の作家たち19人の真実』、講談社)より

戦争はだれも幸せにしない

――どんな戦争体験も辛いもので、「たいしたことはない」と思わせてしまうことが恐ろしいと思います。

 そうですね。私は兄とふたり、父の両親がいる秋田に縁故疎開し、家族がバラバラになりましたが、みんな亡くならずにすみました。妻の父親は軍医で、彼女が3歳のときに南方で戦死しました。妻は父親に抱かれた記憶がないんです。まだ、31歳くらいですよ、残念ですよね。父親に会いたかったと思います。戦争は、国民を幸せにすることはありません。多くの国民を不幸にし、悲しみと苦しみと飢えの中に放り込んで。国民が豊かになるなんて大嘘です。「おはなし会」では、戦争は絶対にやってはいけないと話しています。

――本書でみなさんの戦争体験を読むと、日本各地で空襲があったこともよくわかりました。

 日本中ですよ、ほとんど。私が疎開していた秋田にも空襲がありました。終戦の前日、8月14日に、250人以上の命を奪ったんです。翌日には戦争が終わるとわかっていただろうに。

――食べ物がなくて苦労したことも、みなさん書かれていますね。

 終戦の半年くらい前から、戦争が終わっても数年間は、食べ物がなかったので、いつもお腹がすいていました。本にも書いた、ナツメやアケビ、スモモはよく食べました。ナツメは、青いうちはリンゴみたいでおいしくて、秋に赤くなって落ちてくると、ねっとりして甘くておいしいんです。美術館の開館記念に、植木屋さんがナツメの話を聞いて植えてくれて、今も食べています。田んぼで捕まえたドジョウの味も忘れられません。

美術館の庭でとれたナツメの実

家族との暮らしが生きる力に

――いわむらさんの代表作、ねずみの家族の生活を描いた「14ひきのシリーズ」(童心社)を読むと、家族の温かさを感じます。戦争の体験も、作品をつくるきっかけになっているのでしょうか?

 そうですね。家族との暮らしは、生きる力を蓄えることだと思います。戦時中、辛かったのは、なんといっても母親と会えなかったことです。疎開先は、秋田の田舎にある大きな家でね、怖いんですよ。今思うと、夜驚症だったと思うんだけど、夜中に目を覚まして、「怖いよ、怖いよ」って泣きながら逃げ回っていました。戦争が終わって半年くらいたって、ようやく東京に帰ってこれたんだけど、症状は治っていなかった。8畳一間に家族で暮らしていたんだけど、夜中に泣き叫んで逃げ回って。疎開先とは違って、母親が横に寝ていたから、すぐに気づいて、ぎゅっと抱きしめてくれて、それがすごい救いでしたね。母親に抱きしめられた記憶ってほとんどないんだけど、そのときのことはよく覚えています。5、6歳児にとって、親が一緒にいないというのは、本当に辛いことなんだと思います。

――子どもにとって家族は大切なもの。中でも母親の存在はとても大きいですね。

 母が90歳くらいの頃、実家の近くを散歩しながら「お母さんが今までの人生で一番幸せだと思ったのはどんなこと?」って、聞いたんです。てっきり、「子どもたちと過ごしたこと」とか言うと思ったら、迷わず「お父さんとお母さんが私を可愛がってくれたこと」って。90歳になっても、両親からしっかり愛されたことがとても大事なんです。私も、夜驚症のときに母親が抱きしめてくれたことは幸せな思い出です。この間も、兄弟で集まったときに「いい母親だった」って、みんな口を揃えて言っていました。父親は明治の男で口うるさかったけど、母親はいつも励ましてくれましたね。

――「14ひき」のような家族だったのでしょうか?

 そうですね。両親とも小学校の教員で、毎日忙しく働いていたから、子どもたちが洗濯物をとりこんだり、畳んだり、ご飯を作るのを手伝ったりしていました。「14ひき」で描いていることは、戦争に負けて、日本中が焼け野原になって、そこからみんなで力を合わせて生活を築いていった、そんな背景もあります。生活に必要なものを自分たちの手で作りながら、生活をつくっていくことが大事なことだと思っています。私たちは、戦後、家もなくなって、8畳一間を間借りしていましたが、台所もなかったので、父親が庭の隅に自分でつくりました。風呂も、どこかからドラム缶を持ってきて、石の上に置いて、ちょっと離れた共同井戸から水を運んで、薪で炊いて。そうやって、自分たちの手で生活をつくっていったことは、作品を作る上で、とても参考になりました。

『14ひきのひっこし』(いわむらかずお、童心社)

――家族で力を合わせて生活をつくっていったんですね。

 そうです。何もないところから、水道やガスが通って便利になっていく。それが喜びだったりするわけです。『14ひきのひっこし』の中で、川から家の前まで水を引いてくるところがあります。そこには、そういう背景もあるんです。そういう生活がいいといっているわけではありません。生活をつくっていく大切さを伝えられたらと思っています。

――今、子どもたちに伝えたいことはどんなことですか?

 「14ひき」シリーズで描いていることでもありますが、みんな、一人ひとりがとても大事な存在だということです。私の母親は、子どもを信頼していました。私がなにかに挑戦するとき、「かずおちゃんだったらできるよ」って、励ましてくれたんです。一人ひとりの子どもに個性があって、お互いに口出ししない。それぞれが責任を持って行動することが大事だと思います。私は、子どもは未熟だとは思っていません。子どもはみんな未来に向かって、毎日毎日成長していく。すごいですよ、そのパワーは。それだけで尊敬しちゃう。そんな子どもたちの未来を大事にしないといけないと思いますね。