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犠牲が支える歴史 癒えない傷直視し、広い視野を 藤原辰史

イスラエル軍の攻撃で吹き飛んだテントの跡=7月13日、パレスチナ自治区ガザ南部ハンユニス

 近現代と歴史家が呼ぶ時代は、いまだ癒えていない傷の堆積(たいせき)である。突き放して淡々と歴史を把握すれば、見通しはよくなるが、被害者ならびにその家族の傷口に塩を塗りかねない。痛みを抱く人びとに足場を設けて歴史を把握すれば、鋭角な視野をもつことができる一方で、見通しは悪くなりがちである。

 そもそも、癒えない傷から逃げることなくそれを直視したうえで、ある程度の広範囲の眺めを読者に届けるような歴史叙述は可能だろうか。

人間の深い孤独

 マリオ・バルガス=リョサの歴史小説『ケルト人の夢』(野谷文昭訳、岩波書店・3960円)はその数少ない実例のひとつである。19世紀後半から20世紀初頭に活躍したイギリス帝国の外交官ロジャー・ケイスメントを主人公とするこの作品は、多少の虚構を用いつつも史料を徹底して読み込んで書かれたもので、鋭い視覚と広い風景を双方読者にみせてくれる。

 ケイスメントは、西欧列強が切り開いたコンゴとアマゾンのゴム園で先住民が虐待されていることを告発した。リョサは、コンゴでノルマ以上に拠出できなかった村人たちの手が銃床で潰されたり、切り落とされたりした様子を実在の報告書に基づいて描く一方で、奴隷制を廃棄したはずの20世紀西欧が奴隷制時代と変わらぬ過酷な暴力を振るうほど野蛮だったことを示す。従来の歴史観を砕くような広い景色も見せてくれる。

 それだけではない。ケイスメントが同性愛者であったことも、アイルランド人として独立運動に関わり、外交官として支えていた宗主国に抗(あらが)い絞首刑に処されたことも含めて、歴史をつくる人間の深い孤独の描写もすさまじい。

 ラシード・ハーリディーの『パレスチナ戦争 入植者植民地主義と抵抗の百年史』(鈴木啓之、山本健介、金城美幸訳、法政大学出版局・3960円)は、パレスチナの現在を、イスラエル建国を起点として考えるのではなく、19世紀末のシオニストの発言にある植民地主義にまで遡(さかのぼ)る。著者は在米パレスチナ人で、解放運動の中心にもいた人物だが、アラファトをトップとするPLO(パレスチナ解放機構)の批判的描写も含め細密な政治史叙述は必見である。他方で「パレスチナ人はユダヤ人として生まれてこなかったのが最大の欠陥」というイスラエルの国会議員の言葉を引用し、それがナチスの「血と土」の理念の土台ともなった「中央ヨーロッパのナショナリズムの典型」とみる視点は示唆に富んでいる。

「共食い」の構造

 プロレタリア文学作家、広野八郎の『外国航路石炭夫日記 世界恐慌下を最底辺で生きる』(石風社・3080円)は、恐慌期に外国航路の灼熱(しゃくねつ)の船底で、賃金を滞納され、運動に関わると馘首(かくしゅ)されるような、何の希望も抱く余地のない職場の地獄が淡々と描かれている。酷使される船員の姿は、現在の、世界各地の使い捨て労働者の実態と見事に重なる。だが、本書の真骨頂はここではない。船底の労働者もまた、世界の津々浦々の売春宿で女を買う。そこに、広野の故郷長崎に近い天草の方言を聞くこともある。広野は船員が女を買う構造を「共食い」と表現するが、この犠牲の構造は、広域かつ複雑に世界の港に巣くっていた。

 犠牲といえば、1980年の米国核基地の爆発死傷事故を取材したエリック・シュローサーの『核は暴走する アメリカ核開発と安全性をめぐる闘い』上・下(布施由紀子訳、河出書房新社・各4290円)が、事故後に作業現場で麻薬やアル中が蔓延(まんえん)した事実を記したように、「核抑止論」という政治学用語もまた、背景にある多大な犠牲と狂乱抜きに理解できない。私たちの歴史は、誰のどんな犠牲によって贖(あがな)われてきたのか。犠牲の内実を知りながら、それが支える歴史構造を学べる魅力的な書物は、未来を占うよき伴侶となろう。=朝日新聞2024年8月10日掲載