馬琴と北斎の物語に惹かれた
――本作の監督を務めた曽利(文彦)さんから「役所さんの馬琴と内野さんの北斎なくして成り立たず」というほど熱烈なオファーがあったとうかがいましたが、今回のお話を聞いてどんなところに惹かれましたか。
滝沢馬琴という作家が、葛飾北斎の絵に影響され、触発されて筆が進んでいったということは初めて知ったので驚きました。しかも北斎という大巨匠の絵を挿し絵にしていたとは。馬琴という作家の草分け的存在と、北斎という天才絵師がこんなにも近いところにいて影響し合っていたという物語にまずは惹かれました。それに僕自身、北斎という浮世絵師のことがずっと気になっていたので改めて調べてみたら、なんと魅力的な人なんだろうということを知りました。晩年は「画狂老人卍」という画号を名乗っていましたが、非常に面白い人間なんです。
――1842年に完結してから200年近くの時を超え、「南総里見八犬伝」をもとに歌舞伎や映画など数々の作品が世に出ています。これだけの時を経て受け継がる作品の魅力をどんなところに感じますか。
いろいろなエンターテイメントがありますが、良き者、正しき者が浮かばれるという娯楽作品の原点がここにある、ということがすごいことだと思います。忍術なども出てきますが、ああいう浮世離れした話は今でも市井に生きる人々は心の楽しみとしているし、例えば「鬼滅の刃」なども少し似ているところがありますよね。今でも日本の娯楽文化に受け継がれているのは驚きですよね。
――今回の脚本を読んだ感想はいかがでしたか。
山田風太郎さんの『八犬伝』は、虚実ない混ぜに進んでいく作りが面白いなと思いました。滝沢馬琴の脳内のファンタジーが「虚」として間に挟まれて、滝沢馬琴と葛飾北斎や家族たちの日常という「実」の世界、が交互に入れ替わり進んでいく。この展開が非常に興味深くて楽しいですね。
馬琴の書斎に風を持ってくる北斎
――葛飾北斎をどのように捉え、膨らませて撮影に臨んだのでしょうか。
この映画では、馬琴の凄まじい人生の中で、大きな創作エネルギーの起爆剤となった一人の絵師として描かれています。その馬琴の人生にどれだけ影響を与えていくかということが、今作での北斎の役割だったので、そこは大事にしていました。本が積まれた書斎の中から出てこない馬琴が、自由にフィクションの世界で羽ばたくのに対して、北斎は全国津々浦々歩き回った中でインスピレーションを得て絵にしている。創作家として真逆の人たちを設定しているので、曽利監督からは「馬琴のこもる書斎に風を持ってきてほしい」と言われたのは印象的でした。
――北斎が馬琴の背中を借りて絵を描くという流れはアドリブだったそうですね。
寺島(しのぶ)さん演じる馬琴の妻・お百さんが部屋に入ってきて「じじいが2人で昼間から何やってんだ!」と言うシーンがあるのですが、最初に役所さんが何気なく「おじさん同士がなんか妙な感じでくっついていたら面白くない?」とおっしゃったのがきっかけで、いつの間にやら役所さんの背中で絵を描くことになってましたね。それがいつの間にか、マウントを取る北斎とひれ伏す馬琴みたいになって、馬琴としては何とか北斎に挿絵を描いてほしいから「もうなんでも言うこと聞く」みたいな関係性がオモシロく出たかなと思います。
――役所広司さんと現場でディスカッションしたことは?
役所さんは僕より12歳年上で、映画界でも大活躍されている大先輩ですし、実は僕自身は、役者同士がディスカッションし始めるのはよろしくないと思ってるんです。監督ともそうですが、実際にやってみせるのが一番で、演じてみる中で「こういう感じか」といったすり合わせができていく感じはありますよね。なので、言葉で共有するのではなく、それぞれ持ち寄った演技の中で、どうもみ合うかみたいなことなんだと思います。
役所さんってもっと男っぽい役が多いイメージじゃないですか。なので、朴念仁で堅物な男というものをどういう風に造形してこられるのかなというのは、ちょっと想像がつかなくて興味津々だったんです。僕の初日が、馬琴と一緒に「四谷怪談」の舞台を観に行って、奈落にいた鶴屋南北と出会うシーンだったのですが、そこで馬琴が鶴屋南北と「正義」と「悪」、虚構の世界について論じあうんです。その時、すごい勢いで南北に噛みついていった役所さんを見て「こういうエネルギーを秘めた馬琴なんだ」と合点がいった瞬間でした。
――互いの才能を認め、切磋琢磨し合い、馬琴の良き理解者でもあった北斎ですが、馬琴に対する思いはどんなものだったと思われますか?
最初に馬琴の筆が走る、その原動力を手伝う行為は、馬琴ファンのためにやっているようなところを感じました。自分が描く絵によって、馬琴の創作欲が触発されて筆が進むのであれば、それは万人にとって良いことだと捉えていて「君の筆が走ることは世の中にとっていいことだし、人のためになるんだからやりたまえ。でも挿絵はあげないよ」と、認めてるけど全部はあげないよみたいなところが北斎のかわいいところだなと(笑)、でも馬琴ファンのためにやっている、ファン第1号みたいな気持ちで常にやっていましたね。
北斎は江戸の庶民を観察して活写していく。それに対して、馬琴は活字の世界からインスパイアされて書いていくので、北斎からは考えられないその才能にはほとほとショックを受けるところもあったでしょうし、崇拝や敬愛の念を感じていたのだと思います。
限りなく本物に近い「ギリギリ感」
――北斎と馬琴の出演シーンにない「虚」のパートはどのように意識していましたか?
馬琴や北斎をはじめ、物作りする人たちや芸術家というのは、実はふだんはとても地味だと思うんですよ。作家はひたすら書く、舞踏家だったらひたすら稽古する、といったように「実」の世界は非常に地味な世界なんだろうなと思っていました。翻って「虚」の世界は最先端のVFX技術が用いられ、豪華絢爛、大スペクタクルで、どちらかと言ったら脳内の世界。なので、どんどん世界が広がっていくし、色彩的にも輝度が高い。僕も若かったら「虚」にも出たかったなという気持ちはありつつも(笑)、「実」の世界がきちんと説得力を持っていないと「虚」が振り切れないという意識はありました。
例えば、「虚」のパートで、天守閣の上で戦ってそのまま川に落ちて救われるといった流れは、もう漫画じゃないですか。僕はそういうのも大好きなんです。それに、きっと北斎自身も好きだったから「もっとやれ」と思って描いたんでしょうけど、「虚」の世界は、地味で地面に這って生きている人間が到達できないファンタジックな世界を示してくれるものなので、キラキラ輝く、夢のような世界だと思っていました。
――何が「虚」で何が「実」か、という論じ合いもありましたが、本作を通して、「虚」と「実」についてどのようなことを考えましたか?
僕の中であの奈落でのやり取りは、馬琴が勧善懲悪的なものを作っている一方で、南北はおぞましさやいやらしさなども含めて「虚」なんだよ、ということのバトルだなと思って見ていました。自分にとっては、演技をして生み出している世界は「虚」の世界。これまでいろいろな虚の世界をやってきてはいますが、人の良きこと、正義を信じるエンターテインメントと、「四谷怪談」のように人間が普段心の中にふたをしてしまっている醜悪な部分まで全部見せてしまうというのも、ひとつのエンターテイメントだよねという思いがあるんです。
それを簡単に言ってしまうと「ロマン派と自然派」みたいな分け方かもしれないけど、僕はこれも両方好きなんですよ。同じエンターテイメントでも全然毛色の違うものを作る人間が売れっ子として目の前に出現したら、馬琴にとってはひどくショックだったと思うし、きっと南北にとってもショックだったろうと思うんです。「虚実皮膜」という言葉もありますが、僕は作り物だけど、限りなく本物に近いとか。本物だけど「これって現実なの?」みたいなギリギリ感は好きですねぇ。
綿々と受け継がれる繊細な日本の芸と文化
――23年に公開された主演映画「春画先生」に続き、今回は浮世絵師と江戸時代の絵画に関する役が続きますが、興味を持ったことや面白いなと感じたことはありますか?
今の日本の漫画でも、筆で描いている漫画家さんたちってまだいらっしゃるじゃないですか。例えば「きのう何食べた?」もそうだけど、多分ほとんど一筆書きのような繊細な線で、心の微細な動きまで描かれているのに驚きますが、この文化はそもそも北斎さんからだよねと考えると、日本の漫画家さんの血はここから来ているんだと改めて思いました。
同じ絵でも、海外の水彩油画文化とは全く異なる文化じゃないですか。シンプルだけど繊細な日本文化は、今や日本人より海外の人の方が日本文化のことを認識して、評価していますよね。ネットでイメージをシェアするような世の中になってきましたが、それでも綿々と受け継がれている日本文化があるということは、昔の偉人のことを勉強すると余計に思います。僕たちの遺伝子の中には、僕たちが意識していないことがたくさん組み込まれているんだということに驚きました。