――「新潮」は1904年、「文学界」は33年創刊と、ともに伝統ある文芸誌です。守り続けたいもの、変えていきたいことは何でしょうか。
浅井 「文学界」は、2024年1月号から岡崎真理子さんを新たなアートディレクターに迎え、表紙をはじめとしたデザインを一新しました。文字の多い雑誌なので、あえてシンプルに。雑誌全体がひとつのアートになればうれしいという思いがあります。
杉山 「新潮」は今後も、小説と批評を中心とした作品主義の方針を続けます。文学に限らず、映画や演劇、アートも含めて広く同時代の表現を言葉で届けていきたい。
浅井 「文学界」は数年おきに編集長が替わりますし、いまは4人の編集者で作っているのでその時々のメンバーによって誌面は自然と変化していきます。
杉山 「新潮」も同規模です。変えようとしなくても、中にいる人のアイデンティティーが雑誌の方向性に大きく影響します。
――新しい情報が次々と更新されていくスピード重視の時代に、月刊文芸誌が持つ強みや役割とは何でしょうか。
杉山 考えることを促す文章を載せられるところです。作家の柴崎友香さんがよく「速い言葉には気をつけないといけない」と言っています。速報メディアは、すぐさま結論を出すことを重視しますが、結論に至った過程やこぼれ落ちるものを考えてもらうことを大事にしたい。それができるのは“遅いメディア”である文芸誌なのではないでしょうか。
浅井 何年も前の文芸誌や小説を読んでも、これはいまにも通じる話だなと感じることがあります。時間がかかるメディアは、いま起きていることを書きながら、普遍的なことを語っている。そういうことの積み重ねで言論ができているのだと思います。
杉山 正しいことを「正しい」と書くのは、短い文章が伝達しやすいSNSでもできます。そうではなく、自分と異なる立場や一見「悪」だと思える意見すら我が身に引き寄せて感じさせるのが文学の役割であり、同時に恐ろしさでもあると考えています。
浅井 予測不可能なものをいかに作っていけるか。さまざまな立場、属性の読者がいることにはもちろん配慮しながらも、文学の持つ過激さも残しておきたいです。
――文芸誌には他ジャンルで活躍中の執筆者もいます。新しい書き手はどのように見つけているのでしょうか。
杉山 文章を読んで依頼することが多いです。たとえば、いま「新潮」で定期的に紀行文を執筆している芸人のヒコロヒーさんには、投稿サイト「note」にあげていた文章に触れ、テレビでは見られない一面や批評性があると感じたので依頼しました。
浅井 私も同じです。書き手として魅力を感じるのは、その人の言葉になっているかどうか。同じ事柄を書くにしても、人によって選ぶ言葉は全然違いますよね。クリシェ(決まり文句)に流されずに書くのは、実はなかなか難しいことだと思います。そして文章も大事ですが、やはり視点の面白さや、何を書こうとしているかにも注目しています。
杉山 定型に当てはめる形ではなく、自分の言葉を書こうとしている人の文章を読みたい。それが生成AI(人工知能)にはまねできない“文体”ですよね。
――他の文芸誌はおふたりにとってどういう存在でしょうか。
浅井 今回は何が載っているんだろうと、毎月楽しみにしています。出版社、雑誌によって方向性は違いますが、みんなで生態系を作っている。
杉山 常に刺激を受けますね。最近だと「文学界」のリレーエッセー「身体を記す」に注目しています。男性作家が自らの身体について考えた、迫力と切実さのこもった原稿を毎回読むことができる。
浅井 私は「新潮」の企画「日記リレー」がうらやましいですね。52人がそれぞれ1週間ずつの日記を書いてつないでいき、どんな1年間だったかを表す。あんなにおもしろい企画を繰り返しできるなんて、いいですよね。同じことはできないので、じゃあこちらは何をしようか、と考えています。
――最後に、読書の魅力を教えてください。
浅井 小学生の時に星新一に出会い、読書にのめり込みました。文字だけで、こんなにも世界の広さを見せてくれるのかと驚きました。本を読むと、自分の考えていることのほとんどが、先人によってすでに考えられていることがわかるんですよね。また、いまの自分が何を考えているのかが、読書によって照射されるのもおもしろさだと思います。
杉山 自分は30代半ばで編集長という責任ある立場を任されました。光栄なことではあるのですが、もう中年だし、後戻りできないという怖さもある。でも本を読んでいるときだけは、ふっと別の人生に入りこめたり、あり得たかも知れない世界を感じたりすることができる。それが魅力ですね。(構成・田中瞳子)=朝日新聞2024年10月30日掲載