他罰指向の心性が生む地獄絵図
言ってもらいたくないことを言われる小説なのである。
浅倉秋成『まず良識をみじん切りにします』(光文社)を今月は取り上げる。とことん渇いていて世間の風潮には背を向けた小説だから、直木賞の次の候補になるものを取り上げるという連載の主旨には外れるかもしれないけど、おもしろいからいいや。
5篇から成る短篇集だ。同一の主人公が配されたシリーズものではなく、ミステリー専門誌の「ジャーロ」(光文社)がどれも初出だがノンジャンルの作品集である。5篇の特徴をあえて挙げるなら、そうだなあ、意地悪なところだろうか。
収録作のうち「花嫁がもどらない」は、とある結婚式会場が舞台となる話である。視点人物の〈僕〉が喫煙所から戻ってみると、騒動が起きていた。花嫁が控え室に籠城してしまい、式が中断されてしまったのである。〈僕〉は新郎側の出席者だから、新婦のことをよく知らない。周囲に訊ねると彼女は「気色の悪いものがあって気分が悪いから、会場にはもどりたくない」と言っているのだという。
閉まった扉の前で大勢がわいわい騒いでいるさまは、天照大神が天岩戸に籠ってしまった神話のようだ。群衆の中ではやがて犯人探しが始まる。花嫁を怒らせた「気色の悪い」やつとはいったい誰か、ということである。最初に槍玉に挙げられたのは余興で手品を披露した男性だった。彼を指弾する女性は言う、手品はそもそも深刻なほどに気持ち悪さを内包していると。手品は「ジャンル化された壮大なマウンティング」であると。「手品師がただ個人的に、自身の技量を前に戸惑っている人の様子を確認して愉悦に浸りたいがために始まる、異常なまでに傲慢な営み」なのだと。
手品を披露した男性は謝罪に追い込まれるが、花嫁は出てこない。違ったのだ。続いて批判されるのは音楽ユニットPerfumeのダンスを踊った新婦の友人3人だ。新婦がPerfumeのファンだから踊ったのだというなら、なぜ大枚はたいて当人たちを連れてこないのか。「あなたたちは人の結婚式を文化祭代わりにして弄び、その上で、あろうことか感謝を求めてみせた」のだと詰られ、3人も控室に向かわされる。しかし花嫁は出てこない。では本当の犯人は誰だ。
ここにあるのは他罰志向の心性である。何かが起こる。それを引き起こした原因があるはずだ。犯人は誰だ。そうやって原因究明という正義の御旗を掲げ、誰かを非難しなくては収まらない気持ちが端的な形で表現されている。この犯人探しは止まらなくなる。世の中の出来事をすべて説明できる、全体理論は存在しないからだ。行き着くところは相互不信であり、どこかに黒幕がいるはずだという陰謀論である。物語の最後に描かれるのは、そうした黒い気持ちが煮詰まった果てに出現する、地獄絵図である。
いい話として粉飾しようとしない容赦なさ
どの作品も笑える。からからと笑える。からからに乾いた笑いを呼び起こす。いにしえのキャンペーンコピー風の題名である「そうだ、デスゲームを作ろう」は、憎悪の物語だ。食品会社の営業部門で働く花籠には憎悪の対象がいる。得意先の発注部門にいる佐久保という男で、強い立場であることを利用して理不尽な仕打ちをするようになったのだ。時には直接暴力を振るわれることもあり、花籠はある日我慢の限界を超えてしまう。
そこで彼が選んだのは、預金のすべてをはたいて一軒家を買い、そこを舞台にして佐久保にデスゲームを仕掛けることであった。映画「SAW」シリーズなどでおなじみの、密室に閉じ込められた犠牲者が、死の恐怖に怯えながら脱出するというあれである。自分が受けた傷がいかに深いかを思い知らせるには、単に殺しただけでは済まない。心の底からの恐怖と絶望を味わわせずにおくべきか。かくして花籠は人生のすべてをデスゲームに捧げて動き始めることになる。
この話でたびたび使われているのは「辛抱」という言葉だ。花籠は辛抱の人生を送ってきた。モテず、ぱっとしない青春時代を送ったが、偏差値の高い大学に入りさえすれば一発逆転なのだと自分に言い聞かせ、ひたすら辛抱した。その結果東京大学に合格したが、すぐには薔薇色の未来は訪れなかった。それでもいつかは報われるはずだと信じ、花籠は辛抱を続けた。
彼と同じように辛抱をしてきた人々は、それが報われないということをよく知っている。単純にキャリアを積み重ねていけば成功がつかめた時代はすでに過去のものとなった。人生の出発点ではなく、中途でそれが幻想であることに気づかされた世代に花籠は属している。先に進めば自分を変えてくれる何かがあるという架空の餌に引き寄せられ、いつまでも終わらない辛抱を強制された人々の悲哀を花籠は背負っている。
こうした人生の真実が各話でつきつけられる。一言で表すなら身も蓋もない小説である。ぞくぞくするほどに容赦ない。いい話として粉飾しようとする気配が微塵もないところがいい、と私は思った。作家としての好感度がだだ下がりになってもいいと思っているな、浅倉秋成。
社会のひずみに向ける眼の鋭さ
収録作中の白眉は「行列のできるクロワッサン」だろう。舞台は住みたい町としてたびたび名前があがる東京・吉祥寺である。絵美は夫と一人娘と共にそこで暮らす専業主婦だ。ある日絵美は、商店街に店が新しくできているのを発見した。店の前に置かれた黒板には、クロワッサン専門店 ブーランジェリー「イゴル・エディ」と書かれている。絵美は思う。だが、パンもクロワッサンもこの街ではすでに飽和状態、別の種類の店だったらよかったのに、と。そのことがふじの会でも話題になる。同じ小学校にこどもを通わせている、近所の友人たちの集まりだ。イゴル・エディにできた行列が日に日に長くなっていくことを仲間たちは嘲笑い、絶対にあそこでは買わない、と断言する。考えを同じくする仲間がいることに絵美は安心するのだが、彼女たちの思惑を無視するかのようにイゴル・エディは繁盛し続ける。行列は伸びる一方で、ある日絵美は、その中にふじの会のメンバーが並んでいるのを発見してしまうのである。
これは流行りだから並ばなくちゃ、みんながやっているからやらなくちゃ。大きな言い方をすればそういう同調圧力を描いた作品である。同調圧力は異なる社会で生きる者には降りかかってこない。同じ場所で生き、同じ空気を吸うからこそ感じるのである。完全に無視することは可能だが、自分もそこに生きているということから目を逸らすことはできない。その真理を思い知らされる1篇である。さらに凄いのは、諷刺小説としては理想的な形、規模に空想による現実の変形が行われる点で、ある地点から読者は、まるで異界にでも迷い込んだかのような感覚を味わうことになるだろう。
諷刺小説、そうだ、諷刺小説なのである、これは。浅倉はライトノベル寄りのレーベルでデビューした作家で、ミステリー系の作品を書いて頭角を現してきた。伏線技巧で読者を驚かせることから、その名手として賞賛されることが多い。が、伏線は技巧の一つにすぎず、そればかりを言うのはな、と内心思ってきた。『六人の嘘つきな大学生』『家族解散まで千キロメートル』(共にKADOKAWA)といった近作の長篇でも感じたことだが、社会のひずみ、特に共同体を成立させていくために皆が耐えている矛盾点を題材とするとき、浅倉の筆鋒は実に鋭くなり、切れ味を増す。みなが見たくなくて不可視領域に追いやっていることを描く作家なのではないか。諷刺作家としても水準が高い書き手であることを本作で示したのだと私は思う。浅倉秋成に見られるぞ。小説に書かれちゃうぞ。