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遠田潤子「ミナミの春」 漫才をモチーフに過去に運命を縛られる人々を描く(第24回)

©GettyImages

「過去」を描く名手

 遠田潤子は時の流れの作家である。
 過去、あるいは個人史を描く作家と言い換えてもいい。
 新作『ミナミの春』(文藝春秋)は出身地である大阪の地を舞台にした連作集で、個々の題名に「松虫通のファミリア」「道具屋筋の旅立ち」「アモーレ相合橋」「道頓堀―ズ・エンジェル」「黒門市場のタコ」「ミナミの春、万国の春」と地名が織り込まれている。最寄り駅は松虫通が御堂筋線昭和町で、それ以外は御堂筋線・千日前線・四つ橋線のなんば、堺筋線・千日前線日本橋ということになる。キタとミナミ、梅田となんばが大阪の中心的な繁華街だが、題名にあるようにミナミの連作集なのである。松虫通は阿倍野区だから、ちょっと離れている。東京にはうまく当てはめて言えないが、なんばが渋谷、松虫通のあたりは蒲田といったところだろうか。この地理関係にはもちろん意味がある。
 しかし時間の話だった。遠田は過去を書く名手である。誰もが自分の過去を背負って生きている。たとえば2014年の『雪の鉄樹』(光文社)。中には背負う必要のない別の人間、たとえば家族のそれをかついで生きている者もいる。『冬雷』(2017年、東京創元社)の夏目代助のように。人それぞれに過去の荷は違う。中には身を滅ぼすほどに重いものもある。交換はできなくて、背負っている過去は自分自身で折り合いをつけ、片付けなければいけないのである。遠田作品にはしばしば優しい人物が登場する。他人が辛すぎる過去を背負っていることに驚き、悩み、手を貸そうとする。その優しさが悲劇を招く元になることもある。

やりなおせない人生はない

 背負った過去を描くというのは、後悔の小説でもあるということだ。遠田の描く主人公の中には、読者から見てもそれは駄目だろうと言いたくなる失敗をする者がいる。その意味で必読なのが2022年の『人でなしの櫻』(講談社)だ。もうすべてが駄目である。そのために人生は破滅する。駄目だけどやってしまうのだ。人間は弱い存在だから。駄目だから、と言って踏みとどまれるようなら失敗はしないのである。遠田はそうした弱さに優しい視線を注ぎ続ける。だから遠田作品には、いつも一つの声が響いている。
 やりなおせない人生はないよ、もう一度立ち上がろう。
 基本的に遠田潤子の小説は性格悲劇なのだ。過去が性格を形作り、そのことによってどうしようもなく現在は縛られる。どうしようもない私、を書くことが主題と言ってもいい。弱さゆえに暗い未来へ向けてずるずると引きずられていく物語。

 そんな遠田潤子がミナミを書いたのだ。しかも中心のモチーフが漫才である。漫才だと。漫才なのか。収録作が初出の「オール讀物」に掲載されたときは目を瞠るほどに驚いた。
 演芸の小説は難しい。芸人という人格は作れても、彼らが演じる芸そのものを書くことは、演芸畑出身ではない作家には難しいからなのだろう。漫才はたいていがテンポが悪い。落語はすでにある古典の掴み込みになっている。真の音楽小説が少ないように、演芸を描く小説も書きづらいのだ。そう思って自分を納得させていたので「ミナミの春、万国の春」は衝撃的だった。上手い。遠田潤子の書く漫才は本当におもしろい。
 主人公はそれぞれの話で違う。ただ中心に「カサブランカ」という芸人がいることは共通している。チョーコとハナコという実の姉妹による漫才コンビで、二人は自分も芸能者であった実父から徹底的に英才教育を受けたという設定である。
「松虫通のファミリア」からその漫才場面を紹介する。時代は昭和、歌手・山口百恵が引退したという話題から、チョーコが自分も最後の舞台は同じようにマイクをステージに置こうと思っている、と話す。「へえ、じゃ、ちょっとやってみてえや」とハナコが促すと、

――「わかった。ほないくで。見ててな」チョーコがマイクを握りしめたまま、両手を頭の上で広げた。「本当に『カサブランカ』チョーは幸せでした!」
「あんた、それキャンディーズや」

 若い方には申し訳ない。完璧なツカミだと思う。このあと「やり直し」でチョーコがステージを一周し、長嶋茂雄の現役引退を真似る、という駄目押しがくる。ますます完璧だ。
 この「カサブランカ」に憧れて自らも漫才師を目指した、というのが「松虫通のファミリア」の主人公・高瀬吾郎の娘・春美である。春美の母はピアニスト志望だったが、果たせずに病を得て早く亡くなってしまった。その夢を娘に託すべく吾郎は娘にもピアノを習わせていたのだが、運命を親によって定められたことに反発し、春美は音大受験を拒否して吉本のNSCに入った。そのとき吾郎は「今頃、お母さんは天国で泣いている」と、言ってはならないことを口にしてしまったのである。意匠は異なるが、登場人物はいつも遠田世界の常連、過ちを犯し過去に運命を縛られる人々だ。
「道頓堀―ズ・エンジェル」には、恋多き女だったチョーコのせいで人生を踏み外し、結婚詐欺に引っかかった、と筋違いの恨みを抱く38際の女性・田島都が登場する。その彼女と道頓堀にかかる戎橋の上で意気投合するのが、末期がんで余命いくばくもない夫から隠し子がいることを知らされて衝撃を受けている58歳の橋本喜佐だ。この二人がさらに、18歳のサエという哀しみにくれる少女に出会う。それぞれ20歳ずつ年齢の違う三人の女が一夜を過ごすという内容なのである。この程度ならネタばらしにならないと思うが、喜佐の夫の隠し子問題は、別の短篇と関わりがある。そういう風に各話は接点を持っているのだ。「松虫通」のファミリアは、作中で語られる過去が昭和で、現在が1995年だから平成7年。「道頓堀―ズ・エンジェル」は2018年で平成30年と、通読すると平成の時の流れが浮かび上がってくる趣向になっている。大阪・ミナミの平成史なのである。

さらりと書かれた一文に心を射抜かれる

 第2話にあたる「道具屋筋の旅立ち」は、初めてできた恋人が自分を支配したがる男性だった女性が主人公だ。現在であればDVとして批判されるだろうが、物語当時の平成初期にはそんな言葉も一般的ではなかった。女性の身体は女性のものとは思われていなかった。第3話の「アモーレ相合橋」の主人公は現在で言うヤングケアラーだった過去があり、第4話「道頓堀―ズ・エンジェル」は結婚と妊娠に支配される女性の現状、第5話「黒門市場のタコ」では親によって支配されるこどもと、直視すべき社会問題が各話の土台として取り上げられている。その現代的な題材に、典籍から採られた言葉がモチーフとして合わせられている趣味もいい。「閑古錐」「八角の磨盤」「壺中日月長し」と、硬い言い回しがふわりとした物語を引き締めるためのたがになっているのである。
 そしてなんといっても遠田といえば抜群の比喩だ。のように、と喩えてさらりと書かれた一文に心を射抜かれる。登場人物たちの複雑な心の動きが、そこに集約されたように見えるからだ。

――あたしほんまにどんくさいわ。その大阪弁はするっと耳を通り抜けると、腹の一番奥底に収まった。知らぬ間に家に入ってきて、縁側で香箱を作る野良猫のようだった。(「松虫通りのファミリア」)
――ああ、やつれていても変わらない。スーパーのカゴにミカンを放り込んだような笑顔だ。(「アモーレ相合橋」)
 小説を読んでいる、という気持ちになる。これぞ小説の文章だろう。遠田潤子の小説だ。